鳥と山野草の話

鳥類と山野草、主にシダ植物を書いたりします。

ロシアはオオカミ少年

ロシアのことを尊敬していた。北方領土問題はあったが、戦争中だったのだから色々と理不尽なことも起きる。それは棚上げしておき、この国の好きな事柄を数えては、スゴイ!と思っていた。文学ではトルストイを読まずにはおられなかったし、音楽ならチャイコフスキーが一番に上がる。ピアノ協奏曲を聴いては体が震えるほど感激する!それを演奏するピアニスト、交響楽団、また、その音楽を使って観客を魅了させるバレエ団。スケートだってフィギュアの選手はすばらしい!大作を集めた美術館、特にエルミタージュ美術館は見事である。ロシアに行ったことはないが、以前、京都でロシア展をやっていて、なんとなく見物に入った。そして、見たこともない宝物を見せてもらって大変驚いた経験がある。まあ、ロシアの珍しいモノはほとんどが帝政時代の遺物なのだが、日本とはケタが違う。北国で寒い地域だけど、それだけに辛抱強い民族だろう。世界一の広い領土に多くの資源、多くの国民。為政者が国民の幸せを願って善政に努めれば、世界から尊敬の眼差しで見られる要素がたっぷりあるのだ。なのに、なぜ他国のモノを奪おうとするのか。これ以上領土を広げてどうするのだ。領土のほとんどはツンドラでヒトの住めない荒野だって?そんな言い訳をするのじゃない。知恵をしぼって良い環境を人工的に作れるはずである。為政者が国民をないがしろにして我が懐を温めることに終始するから、いつまでたっても国が発展しないのだ。誰もが住みたがる、他国からも移住したがる国にするように努めれば良い。ウソばかりついて自分を守ろうとする気風は、古くの昔、帝政ロシアのころからの激しい身分制度に由来するのかもしれないが、今や世界でも指折りの大国なのだ。プライドを持ってほしい。他国を侵略し国民をも世界をもウソで塗り固める。言語道断である。しかも見え透いたウソだ。すぐに見破られるウソは自分を貶めるだけ。もう、誰も信用しない。オオカミ少年と同じだ。立派なモノに囲まれた、世界が認める要素を持ちきれないほど持っているロシア。もう一度尊敬させて欲しい。尊敬される者は謝ることを知っている。謝って貶められることはけっしてない。見栄を張らず素直になって、今一度わが身を振り返るべきである。キリストは言われた。「あなたがやって欲しいと思うことのすべてを人々にせよ」と。これは黄金律という。すばらしいロシアに立ち返って欲しい。神はすべてご存じである!

横断歩道も危険!

道路を横断するときは横断歩道を使う。車はヒトが横断しようとしている時は、横断歩道の手前で停車しなければならない。・・・と車の免許を取る時にならった。更新するときも講習で再度言われる。ところが最近の交通事故は横断歩道で歩行者を轢いてしまう、轢かれてしまうことが多い!たぶん高齢化が進んで高齢の歩行者が多くなったからだと推察する。それから車が法令を守らず横断歩道の手前で止まってくれない、だから事故になる、とはマスコミの意見である。しかし、私が子供のころは、車は急には止まれない、横断歩道を渡る時も左右を確認して車が来ていないか注意しながら渡りましょう、とセンセーにならった!そうなのだ、横断歩道だろうと信号付きの交差点だろうと、歩行者も信号も無視して突っ込んでくる車は多い!歩行者は車も自転車やバイクなども来ていないことを十二分に確認してから渡るべきである。こちらが青信号だから優先権はこちらだ、と我を貼って横断し車が止まらなかったらどうなるか?ケガをしたり死んだりして損をするのは自分だ。自殺しようとしてフラフラと道路に出れば、車は迷惑するが、まあ、おおむね歩行者は得をしない。いくら何億も賠償金を貰っても、半身不随なんかになったらやっぱり困る!信号が青でも車が近くに迫ってきたら、本当に止まってくれるのか確かめてから横断しよう。信号無しの横断歩道では手を上げて、渡る意思を示しても車はよそ見をしていて、ヒトに気づかないかもしれない。もしかしたらわざと止まらないかもしれない。

若いころ大都会のデザイナースクールに入学していて、学校から電車で一駅のところに学生寮があった。一駅といっても電車を降りてから15分ほど歩く。ラッシュの時は根性出して弾丸のようにぶつかって乗らないと乗れないほどの満員電車で通学する。当然帰りも多くて信号がある道は大混雑だった。ゆったりと歩きたくて時おり信号のない交差点を通る方の道を帰ったりした。ある日、その道の交差点で大勢の帰路につく人々の後ろを付いて、交差点に入った。車は整然と止ってくれている。安心して歩きだし何気なく止まっている車の後方に目をやった。軽トラが走ってくる。三車線の道路で一番奥の車線は何もいない。走ってくるクルマはそこに車線変更をして突っ込んできた。私の前を女子学生のようなお嬢さんが足早に横断中だ。ドンっと鈍い音がしてお嬢さんは高く宙に跳ね飛ばされ、パシっと道路に叩きつけられた。パトカーの真ん前である!大勢の目撃者、警官の前。お巡りさんが下りてくる。私は足が震えて交差点を渡るのに時間がかかった。車が止まっているしゾロゾロ横断中の歩行者がいるのに、運転手はわからなかったのだろうか? 魔が差したとしか思えない。何十年もたった今でもあの時の光景を思い出す。あの交差点はすぐに信号がついたが、あんな大きな交差点になぜ信号機がなかったのか、疑問だ。大勢のヒトが渡っている、しかも車は止まってくれている、こういう所の横断でも安心はできないのだ。最近のドライバーは横断歩道で渡ろうとしているヒトがいても、ほとんど止まらないそうだ。わが町の裏通りでも横断歩道で突っ立っていたけど左右10台ほどの車が平然と通過してくれた。一台も止まってくれなかった。全部行ってしまってから、右左を三べんも確認してから素早く渡った。横断歩道も信号も絶対信用するべからず!

我が国は平和ボケ!

北の大国が、元は同僚の隣国へ押し入った。あさましいことだ。資源に恵まれ広い領土に大勢の国民。伝統のある文化と歴史を持った、他国も羨む大国が、何を血迷ったのか?だが、彼の国は70年前、我が国と不可侵条約を結んでいたのを一方的に破棄し、負け戦でボロボロになっている我が国に押し入って、島々を勝手に略奪した。歴代の我が国トップは、返せ戻せと馬鹿の一つ覚えのように叫んでいるが、戻ってくるわけがない。何度も出向いては機嫌を取っていたが、見苦しいので止めて欲しい。島が戻ってくるとしたら、科学者に噂されている大地震が起きて、島ぐるみ大津波に巻き込まれ、とても復興がかないそうにない時くらいだと推察する。目の上のタンコブである米国の下っ端に成り下がってしまった、小うるさい我が国に島を返してしまったら、たちどころに米国の軍隊がのさばってくることに決まっている。国が破綻してしまうほど落ちぶれても、これだけは譲れないのだ。それこそ、彼の国は、要らないことに手を出して、何よりもカネのかかる戦争などをおっぱじめた。馬鹿としか思えない。これが我が国の始めたことならわからいでもない。我が国は資源といったら山の木と、今のところタダ同然の水資源だけだ。食糧も、燃料も、すべてライフラインにつながる物は他国に依存している。数年おきに入れ替わるトップが気をもんで、あちこちの国に手を回してはいるが、しかし、新型コロナのパンデミックでは、マスクがない、防護服がない、ワクチンがない、入院させる病院がない、とないない尽くしであった。アメリカがワクチンを素早く開発し、それを我が国に回すように手配した首相には感服する。もっとも、このメッセンジャーRNAワクチンは、我が国の醤油メーカー秘蔵の品がないと作れないそうだと聞いた。文句を言うなら、これを輸出しないぞ、と脅しぐらいはかけたかもしれない。何度も熱波のごとく感染の波が押し寄せて、国中大騒ぎになり、国家はカネをばら撒きまくった。造幣局は忙しかっただろう。国債をせっせと刷って日銀に売り付ける。いっそ、国債もデジタル化できればラクなのに、まだ紙でできているのだろう。コロナ騒動が収まっていないのに、北の方で戦争が始まった。独裁の専制君主とかたや民主主義の旗を掲げる国との争いである。聞けば、二三日でカタがつく、と侵攻した大国はのたまっていたそうだが、もう二週間以上過ぎた。大国の方は世界中の民主国家から総スカンを食い、この上ない経済制裁を受けて、さらにエスカレートしそうだ。襲われた国の大統領は優しそうな俳優上がりのイケメンで、恫喝すればすぐに白旗を挙げる、と思われていたのだが、なんと、彼は国を守るために戦う、世界の皆さんはぜひ応援し助けてください、とリモートで演説した。たくさんの物資や義援金が集まっているようだ。ただ、米国もEUも核をチラつかせる大国に怖気づいて武器や戦闘機を欲しがる民主国家に、与えることが出来ない。情けない話だ。責任を取りたくないのが見え見えである。この報道を見ていて気が付いた。戦う、と言った大統領の、なんと勇気があり立派なことか、と言うこと!それから、我が国の首相が新しく就任したら必ず米国詣でをする、同盟国らしい米国の本音だ。我が国がどっかの国に侵攻されたとき、この国はそっぽを向くに違いない、と。あっというまに、日本中の米軍基地が引き上げられてなくなる。我が国の憲法9条を替えようという話が出ているが、野党のしぶとい党は変えなくても9条だけで、国は守れる、と寝言のようなことを言っている。日本の憲法は米国から押し付けられたものだ。70年の間に、日本は平和ボケ、という恐ろしい性格を植え付けられたのである。二度と第二次世界大戦のように、軍国主義国家にならないように。しかし、いつのまにか、我が国は領海を虎視眈々と狙う国ばかりに囲まれてしまっていた。北の大国と渡り合っている民主国家のような振る舞いが出来るであろうか!

背を伸ばすには牛乳!

私は終戦後すぐの生まれで俗に言う団塊の世代。食糧事情の悪い時代で、しかも住んでいたのはドがつく田舎の山奥だった。農家が多くコメはあったが、豊富な食糧に恵まれた地域ではなかった。だから、周りにいた子供たちは栄養不足で、今のように体格の良い子はあまりいない。しかし私は同級生たちの中でも頭一つ背が高かった。金持ちの家の嬢様ではないが、母親が美容師をしていて他所よりは少しばかり裕福で、ひもじい思いはなかった。父は川魚を捕るアミを製造していて、アミができたら試しに川へ持って行って漁をする。捕れるのは川魚だが川で漁をする者がほとんどいなかったので、いつも大漁で、それを近所に配ったり家でのオカズになっていた。幼稚園に行きだしたころ牛乳配達が牛乳を持ってくるようになった。私と兄の分でガラス瓶に入った200㏄が2本。母が飲まないとうるさいのであまりおいしくなかったけど、しぶしぶ飲んだが兄はたまにしか飲まず、母が仕方なく飲んでいた。父は牛乳ではなく日本酒で、幼稚園の娘に20円を渡して夕方に酒を買いに行かせる。今なら虐待だ、と警察に垂れ込まれるかもしれない。酒は2級酒を1合だけ。数年後、事業を展開してからは1升瓶で買うようになったが。牛乳と川魚で育った私はニョキニョキと大きくなって、中学に入ったころは家でも一番背が高くなった。山奥から20キロ離れた国鉄の駅がある町まで出てきてから、朝にパンを食べるようになった。近所にパン屋があってホカホカのパンが朝一で買えたから、家族で私だけパンと牛乳を食べる。兄がパン食になったのはそれから10年も後で、もっと幼い時からせっせと牛乳を飲んでいれば、妹に背を越されるという屈辱的な思いはしなくて済んだと思う。彼は魚を食べていた。私も同じものを食べていたのだが、私は骨を上手に取れなくて、父も骨まで食べろ、と言ったが、兄は魚の骨を上手に分けて食べていたので、この辺もカルシウムの摂取量が異なるはず。高校生になった兄は妹が傍に寄るのをひどく嫌った。今思うと妹よりもチビの自分が悔しかったからに違いない。何十年も牛乳を飲んでいるニンゲンは同年代ではあまり見ない。成長期でないと効果はないが、牛乳は生まれた子牛が成長するための完全食である。売ってあるのは水増ししてあり美味しくないが、搾りたてはとても美味しいと聞く。わが子がすらりと背の高いニンゲンになってほしければ、牛乳を飲んでもらうことだ。ちなみに、私は牛乳の会社の回し者ではけっしてない。牛乳アレルギーのヒトは飲まないでください!

喉が痛い時

つい先日、喉が痛くなり、気のせいか体も熱っぽくなった。以前から咳は出ていたし鼻水ときたらティッシュがもったいなく思えるほどすぐなくなる。これはやられたか!と愕然としたが、しかし鼻水は冬に入ってずっとだし咳はもう三か月、咳喘息が出ていたので、では熱を、と検温したら35度6分、低すぎるほどである。オミクロンの前兆を考えられないこともないが、まあ、ちょっと安心。喉は一日中痛く不愉快極まりない。本来ならかかりつけ医に泣きつくところだが、今は医療関係に来やすく行ける時ではない。自分で対処することにした。奥の手はお茶でうがいをするということ。ただのお茶ではない、抹茶入りの緑茶である。今頃の緑茶はパックで振り出すモノには大概、抹茶入りになっているが、できれば茶道で使う抹茶を小さじ半分ほどを湯呑一杯の緑茶に入れ、塩をさらにスプーン半分ほど加えてかき混ぜる。温度は暑くない程度のぬるま湯にして、洗面所でスタンバイ。茶を含んでから体をなるべく後ろに反らしてガラガラ、アー、エー、オーと色々な発声をする。お茶が喉の奥までしっかり行くように、なんども吐き出しては含んで、湯呑一杯の塩入抹茶入り緑茶でうがいをする。吐き出したモノに膿を絡めたモノが出てくれば成功!ひどい時は洗面台の中が緑色のドロッとして物で溢れそうなほど出てくる。湯呑がなければ100㏄の分量が入る物で行い、1時間おきにしつこくやる。膿がだんだん少なくなり痛みが治まってくるはず。これ以外に、首の後ろに灸をするとさらに良い。熱いから嫌だ、というなら千年灸を貼りつける。少し高価だが肩こりなどにも使えるし跡が残ったりしない。首の後ろ側の窪んだ所で喉の後ろになる。これは一日に一回で良い。ルゴールやイソジンガーグルなどよりもずっとよく効くし、茶うがいはうっかり飲んでしまっても大丈夫。ただ、新型コロナの喉痛みに効果があるかはわからない。インフルエンザには効いたし、副作用もお茶アレルギーのヒト以外は別条ないと思う。寝る時は布マスクをして喉をタオルで巻いて寝よう。喉の所に濡れたガーゼを挟むのも良し、マスクの一番外側を軽く湿らせるのも良し!これで一晩しのいで翌日はすぐ医療機関でコロナの検査をしよう。万が一陽性だったら手当は五日以内でないと効き目がないことを肝に銘じておくべし!

50年前の国産車

車の免許を取って55年たった。高校を卒業して都会の専門学校に行っていたが、父から仕事が忙しいから戻って手伝え、と言われて仕方なく1年で田舎に帰った。車が使えないと困るから免許を取れ、自動車学校に申し込んでおいたから、と一方的である。車は乗せてもらう方で、まさか自分で運転することになるなんて思ってもみなかった。しかし父親の言うことは絶対なのだ。会社から3キロ離れた自動車学校に入学したのだが、50人の生徒の中で女性は5人。つまり1割。ひと月で卒業して公安委員会の試験を受ける。実技試験は免除で学科だけだが、入学して最初の週が学科の勉強だった。最初の日の午前中は構造の勉強。教室の隅に車のボンネットを開けた模型がデンと置かれていて、先生が説明してくれるのだが、チンプンカンプンでさっぱり理解できない。男性たちは興味シンシンだったが1割の女性陣は皆似たようなものだ。講義が終わった後、五人の同性たちは深いため息である。同じ学科でも道路交通法を習う法令は、まあ社会のようなもので意味はわかった。構造も一週間後に試験があり70点以上取らないと実技講習へ進めない。つまり、車の運転を習えないということだ。教科書を抱えて帰ってから父や兄を相手に、構造の勉強をした。覚えておけばいいんだ。丸暗記しろ、試験が終わったら忘れてもええ。彼らは免許さえ取れれば良し、と思っているらしい。わけが分らぬままに暗記して、学科をクリアした。実技は講師がめったにない女の子相手なので親切に運転方法を教えてくれた。当時の車は2000㏄のクラウンで、ギャチェンジにクラッチつきが主流である。ブレーキとアクセルの踏み間違えなどは聞いたこともなかった。ロウ、セカンド、トップと三段階でギアはハンドルの左下にある。左足はクラッチを踏み右足でブレーキとアクセルの操作をする。1時間の練習を毎日やって、下手な運転だと次に進めず、補習だ。父はなるべくひと月で卒業してくれ、と言った。補習ばかり受けているとカネが余分にかかるから。まあ、まだ学生上がりのようなもので、十代だったから、無事に予定通り卒業して公安委員会の試験もパスした。ひと月後に免許証をもらったが、その日の午後に30キロ離れた隣町に行ってこい、と言う。免許取り立ての娘に言うセリフか、と呆れたが、兄が横に乗って行ってやる、ということで、初仕事にでかけた。当時の国道はほぼ信号などなく、たまにバスかトラックに出会うくらいの超のんびりした道路だった。30キロの行程なら30分。60キロなら1時間で走れた。使った車はトヨタのパプリカで900㏄、今の軽自動車みたいな車だ。1週間兄が毎日横に乗ってくれたが、セカンドだ、トップだとかなりうるさい。慣れてきたら乗らなくなったのでホッとした。ひと月後に専用のカローラが来た。新しく出たバンで白いきれいな1100㏄の車だ。仕事以外に使っても良い、と言ってもらったが、今の車と比べたらそれは乗りにくい物で、近頃の連中さんだったらエンジンが無事にかかるか怪しい。初夏から初秋まではキイを回せば良いが、寒くなってからはチョークを引かないとかからない。しかもチョークを引きそこなったらキャブレーターとかいう場所にオイルを被らせてしまって、エンジンに点火してくれない。車を怒らせてしまったようなもの。しばらく待ってから再度アタックする。トヨタの車はとても気難しかった。女の子には日産の方が良かったか、けど、わしはトヨタ車が好きだしなあ。父親のセリフだ。運転するのはワシじゃないのよ、と文句を言いたかったが、二年後に日産のエクセレントのハッチバックが来た。これに乗れ、と、娘の意見は無視である。カローラより乗りやすかったか、といえば、女性にはカローラのほうが良いような気がした。やっぱりチョークを上手に引かないと似たようなことになった。真冬にマイナスの気温だと頑強にエンジン点火を拒否する。兄が、湯を持ってきてマニホルドにかけろ、と言う。それをやると一発でかかった。やっかいな車だが、会社の横の坂道でエンストを起こして困っている近所のヒトに、お湯の差し入れを時々行う。今の車は優秀でラクになったものだ。

遭難事故の多いH山

去年の年末、五人のパーティがH山に登って遭難した。この山は1500mほどのちょっとばかし高山になる、登山客が多い人気の山である。クマが住んでいるので必ずクマよけの鈴を持って行くが、山で出会って殴られたというのは聞いたことがない。それより遭難事故だ。二、三年くらいに遭難事故が勃発する。ほとんど死者が出るコワイ山なのだ。20年ほど前だったか、5人いっぺんに遭難して全員死亡、遺体は雪に埋もれて春の雪解けまで見つからなかった。隣町の女性が一人で登って途中の滝つぼに転落死したこともある。数え上げたらキリがない。冬は雪が多く毎年3m以上、7m降った年もある。カンジキを履いて行かないと登れないほどなのに、なぜわざわざ雪の季節に登るのか?アルプスなどに冬山登山した、と言えば尊敬の眼差しで見られようが、H山くらいでは話題にならないだろうに、山が呼び寄せるのだろうか?中年の女性が一人で登って行方不明になり、その女性の住んでいる村人が総出で探しに行った。三日くらい弁当持ちで日役だ。後で耳にしたが、女性の家人が日当を払ったと聞いた。女性は7合目くらいの崖から落ちて遺体が見つかった。彼女はタケノコを採りに行ったのだ。スズコというタケノコが沢山群生していて、採りに行ったことがあるが、一人でなんて怖くて行けない。タケノコにはクマがかじったあとがよく付いている。まあ、タケノコのシーズンになったら毎日山が鳴るほどに、タケノコ採りの連中が押しかけているから、山の物は警戒して出てはこないが、スズコの群生地はいきなり絶壁になったりしている場所が多いから要注意だ。遭難は四季を問わずで、登山をするなら山のことをよく調べて行うべきである。登山道は何か所もありスニーカーで登れるハイキングコースもあって、女子大生などには人気のコースだが、遭難する連中はこんな登山道を使わず一番西側にあるトレッキングコースを登って事故を起こす。一人で登って遭難、というのが結構多くて、皆度胸があるものだ、クマに出会うかもしれないのに、と思う。滝つぼに落ちた女性は午後から登りかけたと聞いた。登山のベテランだったというが、軽装で午後から1500m級の山を登山、なんて山を舐めているとしか思えない。ふもとでは35度ほどの気温でも、上に上がるほど涼しくなり、頂上では長袖でないと震えが来る。昔から遭難者が多かったらしく、どの登山道を登っても途中に避難小屋が作られている。頂上にも三角屋根の小屋があり二階から出入りするようになっている。きっと以前から冬山に登りたがる無謀な連中が多かったのだろう。しかし、遭難者が出る度に駆り出される警察官や消防署の方々は、大いに困惑である!