鳥と山野草の話

鳥類と山野草、主にシダ植物を書いたりします。

センニンソウ

教会の会堂入り口にある下駄箱の上に、白く可憐な花の山野草が飾られていた!十字の形をした美花をまとめて沢山咲かせる、可愛くて教会に見た目はぴったりの花が、実に美しくて目を引く。牧師夫人が道端から見つけて手折ってきたのだろう!「ああ、センニンソウですね、今が盛りの野性クレマチス!でも、これ、たしか毒草ですよ!」「そうなの?」と夫人は深く考えていない風である。センニンソウは日向の野原や河原、国道沿い、廃屋の周りや庭など放っておけばどんどん殖えて辺りを凌駕する。花の時期には一斉に咲き誇り、春のサクラも顔負けするほどに見事である!我が町は山沿いでクマにイノシシ、鹿にアナグマ、イタチと動物園みたいな場所なのだが、草食、雑食の動物たちは触るのも嫌って近くに寄らないと聞く。それはかなりの強い毒草だからで、肌につかえるとひどい皮膚炎を起こすらしい。花を目にすれば、手折って持ち帰りたくなるが、秋の観光シーズン、都会から植物好きの方々が車などでいらっしゃるだろう。センニンソウや同類のボタンヅルなどを知らずに持ち帰り、後でひどい目に合わねば良いが、と心配してしまう。ツタウルシみたいに山の奥まで遠征しないと出会わない毒草なら良いが、センニンソウ類は本当に身近なところに生えているのだ。町の堤防、いつもお世話になる医院の庭や駐車場、買い物に行くときに通る県道沿いにも今は花盛りだ!センニンソウとボタンヅルは相当植物に詳しいヒトとか、植物学者のセンセーでないと区別がつかない。遠目だと同じ物に見える。違いはボタンの花の葉によく似た葉をつけているのがボタンヅル、ハート型か大型スプーンみたいな形の物がセンニンソウである。どちらもキンポウゲ科に属して、日本国内と朝鮮半島、中国に分布する、と植物の本に書いてあった。毒草なのだが薬草でもある。薬になる植物で重病に効く薬を作るモノは、概ね毒草が多い。昔、世界初の麻酔薬を作った日本人、華岡青洲が用いた植物は、トリカブトやチョウセンアサガオなどの毒草だった。実験台になった青洲の奥方は副作用で失明した、という話だ。毒草は園芸品種にもたくさんある。ダリア、スズラン、ジギタリスなんかはヤバい植物でヒトでも殺せるから、ついうっかり舐めたりしないように忠告したい。ジギタリスコンフリーと間違えて食べてしまった、というニュースを以前に見たことがある。花が付いていなかったり若いツボミだと判別しにくいかも?怪しいモノは口に入れない方が良いが、コドモが誤って口に入れる恐れはあるから、家の中や敷地内に置くべからず!鉢植えも止めておく方が良い。じいちゃん、ばあちゃんだけの家だから、という方々もお孫さんとか夜叉孫さんなんかが訪問されるなら、やっぱり要注意です。家の敷地内にセンニンソウが繁茂しているなら、きちんと始末しておきましょう!そのときはゴーグルにマスク、長ぐつにゴム手袋、長袖の服に長ズボンを身に着けて肌を出さないように気を付けて!

コワーイ山野草

何十年か前、山野草を求めて山によく行った。山に囲まれた街に住んでいるが、欲しい物は山まで行く必要がある。車で登れる所までしか行かないが、林道を登って行き広い所で停めて、林の中に入り込み物色した。里山だが800mほど登って探すと、色々な植物が手に入る。オオイワカガミとかノジギクなんかが群生していて、花の時期は壮観だ。それを端の方だけちょこっと抜いて帰る。もっと高い山に登ればマイヅルソウやアカモノなどが登山道に這っていて、踏まないと通れないほどだが、持って帰っても枯らす確率が高いので要注意。オオイワカガミなんか慣れないと100パーセント枯らしてしまう。高山植物のイワカガミの一種になるのだが、場所によっては300mくらいの所にも群生していた。夜間に霧がかかるような場所に多く、湿度が重要な植物のようだ。花はイワカガミと同じだが葉が大きく、秋には美しく紅葉する。楓に負けない美しさなので余計に手を出しては枯らす。紅葉の美しい山野草にツタウルシがある。葉の形もモミジを大きくしたような形で、それは魅力的な草姿だ。知らないと手を出してしまい、後で後悔する羽目になった。知っている草友が注意喚起をしてくれて、気を付けてはいたが、知らずに触ったらしく、家に帰ってから二日ほどして左手にブツブツが出てきた。これは草かぶれを起こしたか、とあわてて湿疹、かゆみ止めを塗ったが、治らない。ほんの三センチ四方くらいっだったし、そのうち治るだろう、と思っていたのだが、治らない。それに痒さが半端でなかった。定期的にひどく痒みが増して眠れないほど痒かった。一週間ほどしてブツブツは引っ込んだけど、痒いところが少しずつ移動して完治しないので悩まされた。教えてくれた山野草会の長老に話すと、ウルシと言うくらいで、とてもしつこいから、医者に行け、と言われた。しかし面積が狭いので二の足を踏む。他の草友や母親も皮膚科に行くように勧める。それを聞き流して売薬の軟膏でごまかしたが、本当に効かないし治らない。大いに困った。普通のウルシかぶれならとっくに治っているのだが、アレルギー体質だからか?ひと月以上たって、やっぱり皮膚科に行こうか、と思い始めたころ、姪が果物のジュースをくれた。リンゴジュースの200㏄入り詰め合わせだ。あまり好きではなかったけど、せっかくなので一つ飲んでみて驚いた。その日は夜まで痒くなくて、なぜ?と考えた。ジュースのせいかな、と思ったが翌日は飲まずにいると、また痒くなる。もう一つ飲んでみた。痒みが止った!これは間違いない、リンゴジュースが効いているのだ。そこで毎日一本ずつ飲んで、なくなったので買ってきて飲んだ。1リットル入りを全部飲むまでに、もう痒みも出なくなって完治した。リンゴジュースの効き目は凄い!それからは皮膚炎を起こしたらリンゴジュースを飲むことにしているが、ツタウルシのコワサを骨身に染みた。いつも行く里山には茂みに入るとワンサカ生えている。一応肌を出さないようにして行くのだが、手首の肌が出ていたらしい。秋の紅葉に引かれて手をださないようにしないと、それはコワイことになる!

戦時中の食糧調達

私は戦後生まれだが、四歳年上の兄は戦時中の生まれだった。都会から疎開して来るほどの田舎で、その中でもさらに山奥の鉱山長屋に暮らしていたと言う。父親が鉱山に勤めていたので、一家五人が長屋住まいだった。戦争が始まってしばらくしてから父に召集令状が来た。祖父は日清日露で戦ったという曰くつきのじい様。どちらも無事に凱旋して、その頃にもらった勲章がたくさんあった。彼はわしに任せろ、と息子を戦地に送り出し、戦時色が激しくなって何もかもが統制になり、食糧調達もままならない時世にもかかわらず、りっぱに食べ物を手に入れてきた。のちに、母親に戦争中は食べ物に事欠いたのでは?と尋ねてみたが、「全然!正月前には餅もついたしな」と自慢げに話す!へえ!どうやって物資を手に入れたのか聞いてみると「おじいちゃんが山の奥に土地を借りてな、そこを開墾して野菜や小豆をたくさん作っていたんよ」山を二つ超えて行かないと辿り着けない、超山の中を一人で開墾して作物を作ったという。誰も行かないクマやイノシシなどしか出会わない場所。盗まれることもなく、一家が食べるには多すぎる作物を、天秤棒で担って運んだ。小豆はかなりの量で、今なら農協にでも出荷するところだが、当時はカネが紙切れに等しかった。欲しいものは物々交換をするしか方法がなく、それに小豆は効力を発揮した!小豆を持って行けば何にでも交換できたそうだ。女子供とじい様しかいない家庭が、豊富な食糧と物品に囲まれて母は困ったことがなかった、おじいちゃんのおかげ、と常々言ってくれた。祖父は力持ちで、二度の戦争に出て、三度目は家族を守ると言う大役をやりとげた。戦争が終わりに近づいて、一度家に戻ってきた父は「沖縄に行くことになった。生きて帰れんかもしれんけど、後はよろしくな」と母に告げたが、祖父は平然と「しっかりとお国のために働くように」と息子を激励した。沖縄戦は苛烈を極め、最後の兵の補充に充てられたらしい。もう、負け戦の終わりが近づいてきていた。その何週間かあと、父から連絡が入り沖縄行きの船が撃沈されて行けなくなった、とのこと。母は安堵したと思うが祖父は、悪運の強い奴じゃ、と呟いたそうだ。日本中の都市が空爆焼夷弾をばら撒かれて、焼け野原になり鉱山長屋からも50キロ離れた都市の爆撃音が聞こえたらしい。写真ではどの都市もまっ平の津波がきた後みたいになっていて、ウクライナのミサイル被害など可愛いものだ、と思えるほどである。徹底的に痛めつけて、極めが広島と長崎だった。世界中が日本は二度と立ち上がれない、と思ったのも無理はない。しかし日本は立ち上がり、立ち直った。70年前の話である!父は復員してきたが、毛布や缶詰などを土産に持って帰ったし、戦後の食糧調達にも祖父と同様力を発揮した。魚を捕るアミを手ですいて投網などを製作し、川に行って魚を大量に捕ってきた。それを母が七輪で焼いて乾燥させ、一斗缶に詰めて保存したが、置き場所に困るほどになり、祖父が「温泉にでも持って行って売ってこい、邪魔で困る」と言い出した。川魚など売れるのだろうか、と母は思ったそうだが、一反風呂敷に包んで背中に背負いバスで40キロはなれた温泉地へ売りに行った。最初に恐る恐る入った旅館が、全部買ってくれたので、また持って帰らなくて助かった、ということだ。旅館なのに、客に出す食べ物があまりなくて渡りに船だったらしい。両親はカネが手に入ったので、帰りに温泉街で食事した、と後で聞いた。じい様たちに報告をしたかどうかはわからない。

巨星倒れる!

生き物は生まれるやいなや、死に向かって前進する。ヒトはその生き物にとって長生きをする稀有な存在だが、すべて寿命を迎えられるのではない。100歳を超すめでたい方もあれば、生まれるとすぐに死んでしまったり殺されたりする理不尽な命もある。長らく我が国のトップに君臨した、安倍元総理が亡くなった。参議院議員選挙の応援に駆けつけて壇上に上がっての時、暴漢から銃撃を受けたのだ!これも神の采配と言えばそうなのだが、しかし、理不尽極まりない出来事であった。それも、犯人の一方的な思い込みによる暴挙!許されて良いはずがない。まだまだ働ける、頼りにしたい、政治家たちも国民も、そう思っている者が多いはずである。彼のヒトが亡くなって、心に大きな穴が空いた、思ってもみない喪失感が心を襲った。テレビが揃って事件の全容をこれでもか、と報道したが、見るのも聞くのも辛い。新聞もデカデカとはみ出しそうな字体で何ページにもわたって、こまごま、クドクドと書き上げた!親戚縁者ではなく友人でもなく、ただ総理大臣をしていた時に国民だっただけだが、これだけ心に衝撃を与えられたヒトはいない。あちこちの献花台が花で埋まり、暴漢へ対する怒りの言葉が民衆から発せられた、衝撃的な大事件である!今後、日本の歴史に、安倍元総理は銃撃に倒れた名宰相として長く残り、語り伝えられることであろう!日本を取り巻く国々は、なにやらきな臭いにおいを発する所が多いが、国のトップは何があっても国民と民主主義を守って欲しい。この度の事件は警備において、少々抜けた様子で油断があったと言いたい。いくら現職でないから、といって、あの警備はいただけない。今やほとんどのニンゲンがスマホ持参だ。メディアの者だけが写真を撮れる時代ではない。衆人環視の中での事件である。大特ダネの写真や動画をシロウトが撮っており、警察やSPは言い訳ができないはず。警察の本部長が記者会見を開いたのを見て、「あ、君はクビ!」と思わずつぶやく。犯人はすぐ取り押さえられたが、これがアメリカなら、とっくに警官の一斉射撃を食らっていたに違いない。すぐに犯人を消したがる米国は、犯人から警察の手落ちをバラされたくないからだろうが、事件の真意がわからなくなる。もしかしたら、彼のヒトを煙たく思っている、どっかの国が暗殺を頼んだかもしれないのだ。米国だけがニュースで暗殺された、と報じたではないか!

岸田首相が最後の応援を行ったニュースを見て、複雑な気持ちになった。真後ろにへばりついているコワモテのSPらしき男性が、超気になって、やればできるじゃないか、と思ってしまう!

むかしの川遊び

小学校低学年のころに住んでいた山奥の町では、夏になると子供たちが川遊びをやっていた。プールなんて、どの学校もなかったので、川で泳ぐのが当たり前。学校お墨付きの遊びだった。南側に一つ、西側に一つ川があり、下流で合流して大きな川になる。南側は奥に大きな鉱山街があり人口も多かったので、水温が少し高い。西側は1500m以上の山から流れてくる水のため、いつも冷たかったので、親が南の川で泳げ、と言っていた。川へ行く日は決まっていて、週の5日くらいで午後1時から2時間の間。上級生が先導して川へ連れて行くのだが、上級生といっても6年生かまたは5年生である。今なら親が目を剥く話だ。しかし、当時の子供たちは今の連中よりもしっかりしていた。川の流れがゆったりした淵の所で泳いだり、岩で甲羅干しをする決まりで、到着したら体操をして、それから上級生の男の子たちが川底に危ないものが落ちていないか、水中メガネをつけて潜り検査をする。陶器やガラス、金属などが落ちていたら拾っておく。川はサンショウウオが出てくるほどキレイな水だが、それでも茶碗の欠片やビール瓶が落ちていたりするのだ。川が安全になってから低学年の子供たちが、キャアキャア言いながら川になだれ込む。責任者の男の子は時計を親から借りてきて、きちんと時間を見て30分経ったら全員上陸である。甲羅干しをして体温を調節だ。1時間くらい経ったころ、誰かの親が様子を見に来た。じい様やばあ様のときもあったが、子供たちがうまくやっているか気になるらしい。こどもが流されたりケガをしたことは一度もなかった。子供たちは何か起これば、大好きな川遊びができなくなることを知っていたから。お金のある家の子は水中メガネを持っていたが、大体は戦後の貧しい農家の子供たちばかりだったから、遊ぶ道具は河原に落ちている流木や石ころだ。たった二時間の間だからオヤツも飲み物もない。ただ、浮き輪を持ってくる子は多かった。浮き輪は車のタイヤに入っているゴムのチューブで、自転車の子もいた。流れがほとんどない淵なので浮き輪遊びにもってこいである。変わった形の石を深い所に投げ込んで、潜水の得意な男の子が拾ってくる遊びは喜ばれたが、今頃のように川や湖での水難事故が多いと、教育委員会が禁止、と言ってきそうだ。淵の深さは2mくらいだが大きな岩の下あたりはもっと深かったかもしれない。責任者の上級生は二時間経つと、きっちり遊びの中止命令を出す。全員、服に着替えて家に帰っていく。私の一家が20キロ下流の町へ引っ越してからも、やっぱり夏は川で泳いでいた。中学校には町の金持ちが寄進した25mプールがあったのに、プールの水は汚い、川の方がキレイだ、ということだった。ただ、先導の責任者は回り持ちの親たちで、二人が時間まで遊び場所へ付くのが原則。私はそのころ5年生になっていたので、当番でやってきた誰かの親がカナヅチなのを知って、なんていい加減な当番だ、と思ったものだ。

ラン科植物 ネジバナ

ネジバナは空き地や芝地、また山地の道端などに多い雑草扱いの山野草だが、れっきとしたランの仲間である。ランには興味を示す、しかし植物にはあまり詳しくない方々に、これもランですよ、と言うと、「ええっ!これがラン?」と驚くヒトのなんと多い事か!まあ、可愛い花ではあるけど、ランと言えば、カトレアとかシンビジュウム、コチョウランなどを頭に浮かべる園芸の好きな奥さまがたは、空き地や畑の隅に生えている雑草のような花がランだなんて思えないようだ。ランの花は花屋で買うと概ね三桁の金額では手に入らない。最近はタイあたりから安い切り花のデンファレなどが1本100円くらいで買えないこともないが、切り花でもカトレアやバンダなどは結婚式用として出回っているものなど、たぶん1本数千円はするだろう。根がついた鉢植えのカトレアの方が安価な場合が多い。バンダなどは東南アジアから直輸入で、たとえ円安でも結婚式とかイベント、金持ちが注文する花束などには使われる。タイでは畑に棒を立ててバンダをキュウリでも作るかのごとく、押し合いへし合いで栽培し、花を輸出している。日本でそんなマネをすれば、おびただしい温度管理代がかかるか枯らすか、どちらかである。バンダは着生ランだから木枠などに入れて温室で吊り下げて栽培する。30年前に一株3000円で売ってあったが、カトレアくらいの価格だと思った。では、ネジバナはどうか。となりの大きな空き地からネジバナが飛んできて、勝手に鉢やプランターに入り込み、断りもなしに増えるので閉口するのだが、この小さなラン、鉢に入れて栽培するとなると、とても難しい!山野草店では一株500円ほどだが、八重花とか葉に模様が入ったりしたものは小町ランと呼ばれて、とんでもない値段がする。安い物でも千円以上で、ちょっと変わったモノはン万円もする。バンダやカトレアもびっくりの高価なランなのだ。それが、栽培は難易度が非常に高く、大枚はたいて購入してもひどい時はひと月持たない。買ったことがあるのかって?失敗談をあちこちから聞くので買うつもりなどなかったが、同好の士からもらって見事に失敗をしたし、隣の空き地から入り込んだ株に、きれいな覆輪葉の物があって、喜び勇んで山野草用の信楽焼鉢にそっと移して奉った。神の恵みだと思ったが、神さまは鉢に移し替えたりしてバカタレと思われたに違いない!覆輪株はやっぱり三か月持たなかった。何が気に入らないのかよくわからない。よそから採ってきたネジバナも大体に持ちが悪い。勝手に飛び込んで大きくなった株は水やりや置き場所がどうでも良いらしい。「オイラが好きで入ったんだからさあ」と言っているみたいだ。好きで入ってくれたんだから、と、鉢の雑草を抜く時もネジバナだけは残しておくようにしている。また、覆輪葉がでないだろうか?ちなみに、それを業者から購入すると3000円以上はすると思う!

エネルギー節約、木炭バス!

ロシアとウクライナとの争いで、実のところ世界中が大迷惑をしている。原油天然ガス、食料の問題もあって、関係のない国々までとばっちりを食っており、死活問題の貧しい国も多いのである。ロシアへの経済制裁が本当にブーメランのように、行った国々へ戻ってきているのだが、この話は70年前、我が国が米国にケンカを吹っかけて、資源の輸入を止められたことに似ていた。石油や鉱物資源などをほぼ他国に頼っていた我が国が、よりによって超大国に宣戦を布告するなど、無謀も良いところだ!誰も止める者がいなかったのか、と思ってしまう。当時の日本は、明治維新以降、他国と戦争ばかりしていたのだが、負け戦が一度もなかった。ウンが良かったのだと思う。そこで調子に乗った軍部が、米国を相手にケンカを吹っかけた。おかげで散々な目にあったが、庶民は、負けてよかった。財閥を解体し貧富の差がなくなった。勝っていたら軍人が威張っていてどんなことになったやら、考えただけで恐ろしい、と両親がしょっちゅう言っていたから!

そのころ私の家族は今の街よりずーっと山奥に住んでいた。標高50センチの街から標高300mの地まで20キロ、自転車で行くと坂が多いのがよくわかる。大川に沿って県道が走っていたが、舗装などはされていない。砂利道で真ん中が高いかまぼこのような道である。砂利が道路の端に寄ってしまっていて、そんなところを自転車で乗り上げたらひどい目にあう。交通は少なく、たまに材木を積んだトラックやバタコと呼ばれるオート三輪車やボンネットバスが奥の村に走っていく。当時の車は木炭でエンジンを動かしていたそうだ。とぼしい石油は戦争関連に使うため一般には回せない。私は幼かったので覚えていないが、車の好きな4歳年上の兄が、いつも夕食の時、木炭バスに出会った話をする。「しもの坂でエンジンを全開して来るんだ!ウンガ、ウンガ、ウンガとうなりながら坂を上がってくる!けど、お客が乗っているから上がりきれない。結局全員下りて後ろから押す。初めからおりときゃ良いのにさ」とうれしそうに話していた。ドイツ、イタリアと三国同盟を組んで連合国相手に戦争したから経済制裁を食らって、エネルギー資源が入って来なくなったのだ。今のロシアみたいだが、ロシアはすべての資源が揃っている。当時の貧国ニッポンとは違うのだ。それでも世界を相手の経済制裁は痛いようである。70年前の我が国とはまた別の次元で痛いらしい。早くやめれば良いのに、プライドが邪魔をするのか?いつの時代でもモメごとのとばっちりは庶民にかかってくる。つまらないプライドはゴミ箱にでも捨てて欲しいものだ!