鳥と山野草の話

鳥類と山野草、主にシダ植物を書いたりします。

追憶の母 3

花嫁行列が婿さんの家に到着すると、村人の群衆が集まっていて、きれいなお嫁さんだ、とか荷物がすごい、とか嫁取りの家に聞こえるように大きな声で呟く。たいして美人ではなくても、荷物の量がイマイチでも全く関係ない。知り合いの古老が後々、私たち母の家族に話してくれたことがある。「大方の嫁さんより、あんたのオッカサンの方がきれいだったぜ」と言ってくれた。そりゃ、どうも。まあ、母は足が悪く和服姿に白衣を着ていたようだが、まだ十代だったのだ。花も盛りという年齢で、祖母に似て美人でよかったが。

花嫁到着後、嫁取りの家からお菓子が振る舞われる。大きな直径50センチはある竹のザルに菊をかたどった煎餅が山盛りに入っており、群衆に向かって派手に撒かれるのだ。お菓子は次々に出されては撒き散らされるから、菓子撒きが終わった後は壊れて粉々になった煎餅が地面をチラす。ああ、婚礼があった家だな、と一目でわかる。お菓子が人々の数よりも少なめで、少ししか行き当たらないと、後で、あの家は金持ちのくせにケチだ、と悪口を言われるので、余るほど用意しておかねばならない。花嫁が到着したら、いよいよ婚礼の式が始まる。当時は結婚式場などではなく嫁取りの家で行った。家の襖を全部外し田の字型の部屋を大広間に変える。神式でも仏式でもなく、勿論キリスト教式でもない。人前式で、新郎新婦に着飾った男女二人の子供が固めの盃を注ぐ。お蝶雌蝶と言い私も子供の時に駆り出されたことがある。盃がかわされて粛々と式が進みお色直しで花嫁が立ち上がり、髪結い師が後に続く。今のように着物を次々に替えるのではなく綿帽子を外して、髪の乱れをちょっと直してからシズシズと宴会場に戻る。花嫁のご尊顔が初めてちゃんと全員に見られるのである。宴会が終盤になると新郎新婦はもう引っ込んでしまい、母は大忙しだ。髪をほどいて高島田から丸髷に結い直しなのだ。そして着物は五つ紋の黒留袖に変わり、嫁ぎ先の若お上に変わるのである。そして翌日、翌々日と招かれなかった遠い親戚やご近所さんたちが入れ替わり立ち代わりと宴会にあずかる。母の用が終わるのは長いと一週間もざらだったそうだ。しかも、宴会は大概夜で、どんちゃん騒ぎは夜中まで続いた。母は奥へ引っ込ませてもらい、仮眠したりできたが、新郎新婦はさぞくたびれたことだろう。昭和の初めごろの話だから、当時、何も娯楽がなくて婚礼などは格好の楽しみの一つだったに違いない。家に戻ってきた母が、たくさんの料理や菓子類、祝儀などで大荷物を下ろすと、祖母も子供たちも大喜びだ。祝儀は婚礼の代金とは別で、親戚筋が見栄を張る為白衣のポケットにねじ込んでくれたもの。代金は当時10円だったと聞く。そのカネの価値は縮緬の振袖が一着買える値段だったそうで、ご近所さんがそれを知って、「まだ19なのに10円も儲けてくるなんてすごいなあ」と羨ましがった。