鳥と山野草の話

鳥類と山野草、主にシダ植物を書いたりします。

追憶の母 5

鉱山の社宅は、平屋の長屋だった。五家族ほどが入っていたらしいが、中は三畳と六畳の二間で台所は土間の片隅。風呂はなくて入りたければ鉱山町の風呂屋へ行く。幸い風呂屋や商店街までは近かったようだ。当時としては風呂のない家庭がほとんどだったので、母も違和感はなかったらしい。家には夫の両親、つまり舅と姑がいた。他に兄弟となる小舅や小姑がたくさんいたそうだが、それぞれ片付いており問題はなかった。次男の父が両親を見ていたことになる。舅は大柄で体格がよく高齢だったが、働き者で、遠くの山の空き地を借りて耕し豆や野菜を作っていたが、姑は何をしていたのか聞いていない。花のように美しく気品のあるヒトだった、ということを、母がよく口走っていたのは確かだ。祖父も男前だったから美男美女の夫婦で、とにかく母は姑に一目置いていたのだが、どこか悪かったらしく、嫁いで子供ができるまでに亡くなってしまった。足が悪いのに急ぎ貰ってくれたのは母親を安心させたかった、父の孝行心だったのかもしれない。祖母の死後に長男が誕生する。私の兄である。祖父は大喜びで赤ん坊の兄を抱きまくって、片時も離さなかったという。授乳の時だけは渋々母親に返したが、終わるとすぐ取り返す。どちらが親なのかわからない有様だ。首が座るようになると大きなカゴに座布団を敷いて赤ん坊を入れ、天秤棒に担いで4キロも離れた山の畑に毎日連れて行った、というから恐れ入る。孫可愛さもさることながら、祖父の屈強さがわかる話だ。なにしろ日露戦争に出て軍旗の担当をしていたそうで、旗はどんなことがあっても守らなければならない大切なものだったという。そのころは戦闘機やミサイル、戦車などの近代兵器はなくて、馬と歩兵による白兵戦が主流の時代だ。ここはお国を何百里、の戦友という歌と乃木将軍が活躍する頃の明治時代のことだが、機関銃はあったそうだ。それで中村白襷隊が全滅したのだから。祖父は何隊にいたのかしれないが、その激戦地にいたのではないと思う。しかし、戦闘で旗を立派に守り抜いて、勲章をもらったという。勲章は三個ほどあり仏壇の引き出しに入れてあったが、われら子供がオモチャにして弄りまわしていた。現在、行方不明だが、祖父の雄姿を描いた肖像画が残っており、軍服に勲章がズラリと誇らしげな肖像画である。母は毎日我が子を連れだす舅に腹が立たなかったのだろうか。授乳はどうしていたのか?離乳食になってから連れ出して、4時間くらいで戻って来ていたのかもしれない。「おじいちゃんはとっても男前で力が強くて優しいヒトだったんやで。大きな声を張り上げたことなどいっぺんもなかったわ」といつも褒めていたから、子守りをしてくれてありがたかったのだろう。父は、やはり鉱山に通っていた。鉱夫みたいに深い所には潜らなかったらしいが、そこそこの深さに入ってスズを採掘していたみたいだ。子供好きの祖父のおかげで、母は髪結いや婚礼の仕事が落ち着いてできた。戦争の気配はいよいよ色濃くなり、インフレとモノ不足がひどくなってきたのだが、カネもうけをする息子夫婦と売るほど野菜を作って来る祖父の二人三脚で何不自由なく暮らしていた時、父に赤紙が来たのである。