鳥と山野草の話

鳥類と山野草、主にシダ植物を書いたりします。

水害の恐怖 伊勢湾台風が襲来

令和元年で、なんとなくめでたい気がしていたのだが、巨大台風19号が我が国を襲い、ふと、60年前の伊勢湾台風を思い出した。狩野川台風を例に取られて、伊勢湾のイの字も出なかったが、その次の年のことだったと思う。死者、行方不明者5000人以上を出して、日本の治水対策がコテンパンにやられたことで有名なのだが、60年という歳月は気象庁の頭をかすめることもなかったか?まあ、関東方面はあまり被害がなかっただろうから、被害が大きかった狩野川台風を例に挙げたのだろうが!私は、当時小学生だった。町には一級河川が南北に連なりその支流を二本、孫支流もたくさん抱えて、役場と繁華街が真ん中にある。西側に1000mを越す名山もあって、川ではアユがたくさん獲れた。伊勢湾台風は9月26日にやってきた15号台風だったが、まだ遥か彼方の南海上にいたころから、秋雨前線を刺激して、雨が降り始めてやまない。台風が近づくにつれて雨脚は強くなった。家の近くの大川までは50mほどだったが、玄関の真ん前を巾1m深さ80㎝ほどの水路がながれていて山からの水を大川に流していた。台風が来る前日のことである。何度も水路を覗いては父が首を傾げた。今までの水量と違う、これは危ないかも?と何度もつぶやく。「台風はまだ明日の夕方ごろだ、紀伊半島辺りに上がると言っているが、大きいらしいから」何度か水害にあったことのある父は、心配そうだ。翌日の午前中、水路の水はさらに上昇した。父の目つきはさらにきつくなる。家族と当時抱えていた従業員6人を呼びつけて「水が上がってくる!畳を剥いで机の上に重ねろ!、男連中は電化製品をテーブルに上げてくれ」などと言い出した。皆、顔を見合わせたものの、文句も言わず行動に移す。運転手には車を高台に上げろ、と命令する。当時、商売をしていて乗用車1台とライトバン2台が敷地に止めてあった。テーブルの上に冷蔵庫、テレビ、を乗せ、八枚の畳も座卓の上に積み上げられた。他は板の間なので畳が少なかったのはラッキーだ。そして運転ができる男連中は車を動かした。あまりにもあわただしかったので、近所の人々が笑っていたが、彼らは後で泣く羽目になる。夕方になって大川の水が満杯になってきた。当然水路は大川に流れ込めなくなり逆流を始める。我が家は家が道路より少し低く、道が川になる前に水路の水が玄関に入り始めた。しかし、準備万端整って、いつでも避難できるようにしてから「飯を食おう、すき焼きだ!」などと父が言い出した。すぐ近くに肉屋があり、従業員が牛肉を買いに行かされる。近くの八百屋にも走ってすき焼きの材料を仕入れ、二階で酒も用意してガスコンロを囲んですき焼きを食べた。夜8時ごろ、隣保長がやってきて下から怒鳴る。避難しておくれ、危ないから!とくる。はいはい、と答えておき全員夕食を食べてから、それじゃ、逃げようか、となった。母や従業員たちは荷物を持って、子供は父の後ろについて階下に降りると、もう床上にまで水が来ていた。濡れるから、と私は父に抱えられ、家の外に出て道路に下ろされた。長靴の上の方まで水深があったが、手を引っ張られて小学校へ向かう。100mほど西に歩くと水が途切れた。ガヤガヤ言いながら小学校へたどり着き、体育館へ入ると超満員である。濡れた服を着替えさせられたが、不思議と怖さはなかった。それから、5分ほどして、区長がメガホンを構え「仲町区の肉屋さん、豆腐屋さん、食堂が流されました!」とがなったので、とたんに恐怖が沸き上がった。我が家の近くの川側の家家だったからだ。そして、さらに下流木橋がかかっていた辺りが決壊した。しかし、そのせいで家の近辺の水は一斉に引いた。「水が引いたから帰ってもよろしい」とまた、メガホンで怒鳴られたが、今考えると随分、悠長な話だ。この、台風はひどい被害を出したのだが、ほんの端をかすめたくらいの位置だった。潮岬通過時929ヘクトパスカル、暴風雨圏は直径500キロの超大型台風であった。我が家の水害は床上50センチほどで、家財の被害は免れたが、ご近所はさんざんだったらしい!