鳥と山野草の話

鳥類と山野草、主にシダ植物を書いたりします。

追憶の母 6

父が召集にあって軍隊に入ってしまった後も、お国のために仕事ができなくなったからか、召集にあった者は仕事をしているとみられたのか、鉱山の社宅にはそのまま住むことを許された。太平洋戦争に突入して、若者が次々に軍隊に取られて行く。社宅の長屋は留守を守る女子供と年寄だけの家庭が増えて行く。母は戦時中でも髪結いや婚礼の仕事があった。まだ独身の息子にせめてもの親の務めを、とあわただしく嫁を娶らせる家が多かったからだ。嫁入りした女性は大抵がうら若き乙女なのに、運が悪けりゃすぐに後家さんになるかもしれない。それでも貧しい家庭の女性は、そこそこの結納金に吊られてかどうかしらないが、断ることも少なく縁談が成立した。戦時中なので華美な状況は慎まれ、花嫁の髪型は日本髪を結わずに洋髪で、左側に白い鳥の羽飾りを付け、着物は黒紋付き裾模様入りの留袖姿だった。子供の頃、花嫁が振袖姿の派手なスタイルになっていたので、戦時中の婚礼写真を見て、なんで頭が日本髪じゃないん?と尋ねたものだ。母は苦笑するばかりで本当のことを話してくれない。それを聞きだせたのは大人になってからだ。負け戦の様相を呈して来だすと、国は学生まで学徒動員だなどと言い出した。ますます若者が姿を消していき、幼い子やどうみても軍隊の役にはたちそうもない老人、病人、けが人などしか周りにいなくなる。金属類を供出せよ、というふざけたお触れが出て、そこいらの銅像とか寺の釣鐘、家々のクワやスコップまで取り上げられて、それで武器を作るのだとか。今、聞くと、どっかの隣国の話のようだ、と思う。そこまで落ちぶれると勝てるわけがない。さっさと白旗を上げれば、多くの人々が死ななくても良かっただろうに、と当時の政府を罵りたくなる。当然、物不足になり国民の多くは食べる物にも事欠いた。

「さぞかし食料がなくて困ったんと違う?」と母親に尋ねたのだが、「ほんなことは全然!」と首を振る。「おじいちゃんが山奥で作った野菜や豆が、ほんにようけあってな、配給だけだったら、皆、飢え死にだったけど、豆が何にでも化けたんや」祖父は4キロも離れた山の中に畑を作っていたので、盗まれることもなく収穫ができたそうだ。特に役立ったのは小豆で、何斗も獲れた小豆は米や衣類、日用品などにも交換してもらえたそうな。カネは全く役に立たず、何か欲しければ交換品を持参して交渉した。小豆は日持ちがするし、飯を増やすのにも役立つ。そういうわけで戦時中なのに、全く不自由がなかったのは祖父のおかげなのだ。長屋のご近所さんはオトコ手のない家庭ばかりで、鉱員の家族なので農業もやっていなかった。不自由でひもじくて、正月が来てもモチも食べられない。モチどころか、重湯のような食物で米粒が五つ六つ浮かんでいるといった食事。「気の毒でな、小さな子供が何人もいるのに」豆ごはんを時どき持って行ってあげたりした。そうしているうち、米軍の戦闘機が大きな都市や町に爆弾を落としだした。空襲である!鉱山町から50キロ離れた南に60万人の市があり、当然、爆撃の対象になる。ドカン、ドカンという爆撃の音がよく聞こえた、と母が話した。