鳥と山野草の話

鳥類と山野草、主にシダ植物を書いたりします。

レーシングドライバー 2

鈴鹿サーキットでのカーレースは、当時、マイカーが普及し始めていたこともあり、若者には大人気っだった。レース場は何万人という観客で周囲を埋め尽くされ、スタート地点のある直線のメインスタジアムコースは特にスゴイ!スタート地点の横にはズラリと選手の基地であるピットが並ぶ。スタートでは前列左端がポールポジションといって、予選で一番好タイムを出した選手が取るのだ。ただ、前列に並んだ車は誰もスタートダッシュしだいで、トップに躍り出ることが可能である。兄はポールポジションをよく獲得した。そういったレースはいつも優勝か好成績を上げている。6時間レースとか1000キロレースでは、普通に車を並べるのではなくコースの端に斜めに車をぎっしり並べ、選手は反対側の端にズラリと陣取って、用意ドンで自分の車に走り込みエンジンをかけてスタートする。これはル・マン式といって素早く車に駆け込み、飛び出すことができる選手に有利である。

1000キロレースでは長距離で何時間もかけてコースを走るので、一人ではなく気の合うドライバーと組んで走る。兄はいつもFさんと組んでいた。大概Fさんが3割、兄が7割を走って優勝した時は表彰台に二人で登った。ピットでは車のトラブルに備えたりタイヤ交換の準備でピリピリして、我々外野は感電しそうなのだが、それでも気になって覗きに行く。家族とか親しい人間はピット前のパドックまで入れる通行券をもらって、さらに厚かましくピットの中まで顔を出す。レース中はエンジン音がすごくて話をしても聞こえないくらいやかましい。ピットの中などより、ヘアピンカーブの近くで見ている方が面白いが、なにしろ1周6キロもあるので自転車でもないと大変だ。八ミリ映写機で撮影するように言われて、往生したものだ。音が入らないから、後で見てもおもしろくないが、父や兄は面白がって見ていた。今ならスマホやDVDカメラで映画の様に映せる。随分進化した。若かったから歩いてコースを回り、レース終了のチェッカーフラッグが振られる前に戻ってこれたが、我ながら呆れるほどの重労働だった。事故が起こる事も多く、ひどいときはコースを空けることができるまでレースを中断するが、コース場をきれいにしたら続行する。死者が出たレースがあって、中止かと思ったが続行した。当時は今のように週刊誌やワイドショーがうるさくなかったが、できれば事故など起きない方が良い!母が気を揉むはずである。事故の場合、火を噴くことが多くドライバーは非常に危険だ。レースを始めたころは白いレーシングスーツを着ていた兄だったが、父がベージュの難燃性スーツを買い与えた。ノーメックスという有名な会社の製品で、プロのドライバーは皆それを着ていた。ノーメックスを着ているだけで速そうに見えるから不思議である。とても高価で安全と引き換えにしても、一般のアマチュアドライバーには手が出しにくかった。だから兄は白い並みのレーシングスーツを着ていたのだろう。父が兄につぎ込んだカネは半端ではない!親子そろってカーキチであった。