鳥と山野草の話

鳥類と山野草、主にシダ植物を書いたりします。

老々介護

母親の介護を10年ほどやったことがある。母は生まれつき右足が悪かったので、きっと介護が必要になるだろう、と想像していた。車社会になり商売をしていた父に運転免許を取るように言われ、勝手に自動車学校入学の申し込みをされており、唖然としたものだ。当時19歳だったが、女のドライバーは珍しく運転をしていれば振り返られた時代である。免許を取得すると即座に車が与えられた。トヨタの900CCパプリカで、慣れるまでこれに乗れ、上手になったら新車を買ってやる、とすべて父が決めた。クッラッチの付いた、今頃の女の子だったら乗れないような車が主流だった。

車を乗るようになって一番喜んだのは母だ。どこかへ行きたいときはバスを利用するか、休日に父か兄に頼んで車を出してもらうより方法がない。だが、男どもには頼みにくい母であった。そこへ娘が車を走らせるようになったのだ。毎日のように、店へ電話がかかってくる。どこそこのスーパーに行ってくれ、親戚に連れて行って欲しい。店での買い物は町内がほとんどだったが、親戚、特に実家や姉妹の嫁ぎ先は町外だ。連れて行って、翌日迎えに行く。その帰りに数件、買い物の梯子をして帰る。文句も言わず足になってくれる娘は、さぞかし使い勝手が良かったと思う。父も兄もクレームなど付けない。一番ウンザリしていたのは私だ。父は66歳で先立って兄が店を継いだが、中国が台頭してきて店を続けられなくなり廃業した。兄たち夫婦は都会に出ていき私と母が残った。そのころから、母の言動が少々おかしくなり始める。役場の保健婦さんに相談して介護保険の申請を受けたが、要介護3だった。まだ、家に残して私が買い物に行っても留守番はできたので、ホームヘルパー2級の資格を取りたいと思い、隣町の老人ホームへ講習に行った。役場が講習料無料の書類を出してくれたのはありがたかった。身体障碍者の親を介護したい、という理由だからで、期間は半年。家で留守番をしている母が、何かやらかさないかと気になり、毎日電話をかける。ガラケーを持っていたが、電話代節約のため、公衆電話を使った。何事もなく半年過ぎて2級の資格を取得できた。車いすで段差を押し上げるという技術は、何としても覚えたいことで、その他ベットから要介護者をラク車いすに移動させたり、ベッド脇の簡易トイレにうまく座らせる方法などはとても役にたった。介護者は私だけ。母が足を骨折したのはそれから数年後で、90歳台に入っていたヨボヨボの老人を手術する気がない整形外科の医師は、どこの施設をお世話しましょうか、と腹の立つことを聞く。そのころは私も60歳を過ぎていた。どうみても体力のなさそうな娘は、介護などできないと踏んだらしい。「家で見ますから」、老々介護になりますよ、だいじょうぶですか、などとしつこい。老々介護などと言う言葉を初めて聞いたのだった。その後寝たきりになった母を24時間介護で奮闘したが、ホームヘルパーさんを午前と午後の二回訪問させ、週一回看護師、口腔ケアのため技師を一回訪問してもらう契約も病院と取った。週二回町内の特別養護老人ホームにデイサービス利用。その日は安いオムツを買ったり金融機関や役場などの用事で走り回る。介護用品は店で買える物は直接行って購入すべし。ネットで買うと3割増しになる。彼らは不便な場所の住人だろう、と足元を見ているのだ。介護を始めて数年後、私も年金をもらい始めた。少ない金額ではあったけど、大いに助かる。役場からオムツを捨てるゴミ袋を半年分タダでもらったし、おむつ代の給付金6000円を商品券で給付され、これも助かった。ケアマネージャーといつも相談し役に立つ助言をしていただいた。全力投球の介護であった。今はとてもできないけれど!