鳥と山野草の話

鳥類と山野草、主にシダ植物を書いたりします。

むかしの川遊び

小学校低学年のころに住んでいた山奥の町では、夏になると子供たちが川遊びをやっていた。プールなんて、どの学校もなかったので、川で泳ぐのが当たり前。学校お墨付きの遊びだった。南側に一つ、西側に一つ川があり、下流で合流して大きな川になる。南側は奥に大きな鉱山街があり人口も多かったので、水温が少し高い。西側は1500m以上の山から流れてくる水のため、いつも冷たかったので、親が南の川で泳げ、と言っていた。川へ行く日は決まっていて、週の5日くらいで午後1時から2時間の間。上級生が先導して川へ連れて行くのだが、上級生といっても6年生かまたは5年生である。今なら親が目を剥く話だ。しかし、当時の子供たちは今の連中よりもしっかりしていた。川の流れがゆったりした淵の所で泳いだり、岩で甲羅干しをする決まりで、到着したら体操をして、それから上級生の男の子たちが川底に危ないものが落ちていないか、水中メガネをつけて潜り検査をする。陶器やガラス、金属などが落ちていたら拾っておく。川はサンショウウオが出てくるほどキレイな水だが、それでも茶碗の欠片やビール瓶が落ちていたりするのだ。川が安全になってから低学年の子供たちが、キャアキャア言いながら川になだれ込む。責任者の男の子は時計を親から借りてきて、きちんと時間を見て30分経ったら全員上陸である。甲羅干しをして体温を調節だ。1時間くらい経ったころ、誰かの親が様子を見に来た。じい様やばあ様のときもあったが、子供たちがうまくやっているか気になるらしい。こどもが流されたりケガをしたことは一度もなかった。子供たちは何か起これば、大好きな川遊びができなくなることを知っていたから。お金のある家の子は水中メガネを持っていたが、大体は戦後の貧しい農家の子供たちばかりだったから、遊ぶ道具は河原に落ちている流木や石ころだ。たった二時間の間だからオヤツも飲み物もない。ただ、浮き輪を持ってくる子は多かった。浮き輪は車のタイヤに入っているゴムのチューブで、自転車の子もいた。流れがほとんどない淵なので浮き輪遊びにもってこいである。変わった形の石を深い所に投げ込んで、潜水の得意な男の子が拾ってくる遊びは喜ばれたが、今頃のように川や湖での水難事故が多いと、教育委員会が禁止、と言ってきそうだ。淵の深さは2mくらいだが大きな岩の下あたりはもっと深かったかもしれない。責任者の上級生は二時間経つと、きっちり遊びの中止命令を出す。全員、服に着替えて家に帰っていく。私の一家が20キロ下流の町へ引っ越してからも、やっぱり夏は川で泳いでいた。中学校には町の金持ちが寄進した25mプールがあったのに、プールの水は汚い、川の方がキレイだ、ということだった。ただ、先導の責任者は回り持ちの親たちで、二人が時間まで遊び場所へ付くのが原則。私はそのころ5年生になっていたので、当番でやってきた誰かの親がカナヅチなのを知って、なんていい加減な当番だ、と思ったものだ。