鳥と山野草の話

鳥類と山野草、主にシダ植物を書いたりします。

オッペンハイマーという映画

いま話題のアメリカ映画オッペンハイマーは国内でも上映され、なかなかの人気らしいが、聞けば原爆を日本に落とすマンハッタン計画を指揮した、日本人には甚だ面白くない人物の伝記だとか。まあ、彼は自分から率先してこの計画に乗ったのではなく、命令されてやったのだろうが、それでも嫌なモノはイヤなのだ。彼は理論上原爆がすごい力を持った兵器だとは思っていただろうが、なにしろ初めてのこと、使ってみないとわからない。その恐ろしさをヒロシマナガサキで使用して地獄絵図を見た時は、すでに遅かった。彼の苦悩を映画にしたかった監督の気持ちはわからないでもないが、やっぱり私はきいただけでそっぽを向きたくなる。監督はヒロシマナガサキも映像に入れていないそうだから。いくら説明しお涙頂戴に男の苦悩を描いたところで、凄まじい兵器の犠牲になり地獄を経験したヒロシマナガサキのことはわからない。聞くと見るとでは大違い、というではないか!米国人の大半は原爆投下を、戦争が早く終わらせることができた、などと寝言のような言い訳をしている。彼らはゴメンナサイと言いたくないのだ。だから、映画の中にヒロシマナガサキの映像を入れない。入れたら映画を見てもらえないかもしれない。原爆投下を正当化する米国民に忖度をしている気がする。これを日本で上映させる映画会社も頭にくる所業だが、しかたがない。我が国は敗戦国なのだから。国連でも、日本は敵国扱いなのだが、どれだけの日本国民がそのことを知っているのか疑問だ。

田舎の病院

我が家の前には11階建ての大病院がそびえている。ゆっくり歩いても裏の西口まで5分。走れば1分ほどで駆けつけることができる、地域の基幹病院である。しかし最近は医師不足で病院も大変らしい。この病院は、むかし、赤痢とかチフスとかの感染者のために作られた病院だった。市街地から離れた田んぼの真ん中にポツンと建っていた。戦前の話で、戦後、私が物心ついたころは木造二階立ちで障子が取り付けてあった。内科に外科、小児科と産婦人科の四つほどしか科がなかったと思う。そして、患者よりも医師の方が大勢いた。何年かして日本が少し裕福になってきたころ、眼科ができた。入院病棟も増えて、患者数も多くなり、診察室を改築して病院らしくなってきた。患者が多かったのは内科で、次が小児科だ。医師の花形である外科はたまに工事現場の事故とか、林業や鉱山事故で担ぎ込まれてくる患者の他は外来があまりなく、センセーはヒマそうだった。なにしろ車が普及していなかったから、交通事故などめったにおこらない。だから、公益消防がなく救急車もない。後に病院が救急車を買って、急患に対応した。小学校6年生の時、太ももにおできができて、しばらく我慢していたが治らずにひどくなり、眠れぬほどの痛みになって、仕方なく病院の外科に行った。外科の医長センセーがうれしそうに「こりゃ、切って膿を出さんと治らんな」とおっしゃる。「切ってやって下さい」ついてきた母親がためらいもなく言う。「じゃ、そこに寝転んで」と診察室の寝台に転がされた。スカートを履いていたから、パッとめくって、看護師がアルコールで消毒をする。母親は突っ立って見ていた。センセーが注射器をオデキの周りにブスブスとさして、一周するころにはしびれてオデキの痛みがなくなった。寝転んでいたので見えなかったが、2分か3分もしないうちに「はい終わり、たくさん膿が溜まっていたぞ。毎日、洗いに来てね」と言われた。傷口は十文字に切られてまだ中にシュークリームそっくりのネバっとしたモノが見えた。看護師が黄色い消毒薬のついたガーゼを被せて、油紙を乗せ包帯を巻いてくれた。大きな傷口だったけど、オデキの痛みよりはマシで歩いて帰った。当時は病院から10分ほどの距離の商店街に住んでいて、父が商売をしていたので自家用車があったが、迎えにはきてくれなかった。センセーもタクシーで帰れ、とは言わなかった。けっこういい加減な外科医だ。診察室で親とはいえ野次馬OKの手術なんだから。30年ほど後、私の姪が腕の付け根にできた小さなイボを取り除く手術では、来ていた服を脱がせて術衣に替えさせ、頭は髪の毛を覆うためキャップを被せて、「さあ、お家の方は外でお待ちください」ときた。どんな大層な手術を受けるんだ、と内心驚く。姪はすぐに出てきた。自分のオデキの時を思い出して、えらい変わりようだ、と思った。しかも手術室で!そのころ、病院はさらに大きくなり、皮膚科、泌尿科、胃腸科、心療内科などが増えていた。入院病棟はふくれあがりベッド数400床に生まれ変わった大病院である。当時はまだバブル期で医師も多かった。11階建てになったのは15年ほど前で、そのあと急に医師が少なくなり、市に救急車はできたけど、タクシー代わりに救急車を使わないように、などというポスターが院内のあちこちに貼られるようになった。病院の敷居が随分高くなり、最近ではかかりつけの町医者から紹介状を持ってこないと、7000千円を徴収する、なんてのたまう。なるべく来るな、ということらしい!

地震災害

能登半島の大地震からひと月過ぎた。震源地から随分離れた地域に住んでいるが、同じ日本海側で海辺ではないモノの川の傍で、地盤はおそらく最低な場所にちがいない。ちょうどテレビを見ていた時である、急に例の慌ただしい音とともに緊急地震速報が画面いっぱいに現れて、数分後津波警報、そして、すぐに大津波警報となった。アナウンサーが黄色い声で「すぐに逃げて下さい、高い所に逃げて下さい!」と叫ぶ。本当に切羽詰まった声で、思わず椅子から立ち上がった。その時、照明の紐が左右に揺れだし、足元が細やかに震えるような振動を感じてびっくりした。うそだろー!と心の内で叫んだ。洗濯物を干すための部屋に張ったツナも小刻みに揺れている。テレビの画面上に震度が次々に出されたが、我が町の名は全くない。柱は揺れなかったので恐怖心は起きなかったが、疑問符がちらつく。なんでや!50キロ離れた隣の市の震度が出てきた。震度4。海辺の町があり津波警報が出て来る。まあ、海は繋がっているし、元は大津波警報だから仕方ないか、と思いながらパソコンを立ち上げた。自分の町の震度を検索すると、2と出ていた。震度2ねえ?よく、揺れたのに、やはり川の傍で地面の下に伏流水が流れているだろうから、揺れが伝わりやすいのかな?

我が家は昭和61年の建築である。山奥の工務店に頼んで建ててもらった、小さな安普請の家だが、一応ヒノキの柱に黒い瓦が乗った日本建築で、柱にはすべて筋交いが入れてある。震度6までは大丈夫だそうだが、地面はベタ基礎なんかにはしていないから、大きな地震だと液状化で建物が斜めになるか、潰れるか?近くには30キロの大きな断層がある。大昔動いたモノだと思う。ネットではこれが動いたら大きな被害が出る、と書いてあったが、そんなことはしらん!日本は地震の巣の上に出来ている国だから、段ボールで囲った家にでもしないと、大揺れだと潰れる、と思っていた方が良い。東京にはタワーマンションとか言って背の高いビルが、競争のように乱立しているが、大丈夫かいな、と思ってしまう。災害の中でも地震は規模が大きい。すぐに電気が来なくなる。水も来なくなる。ガスも勿論危ないから止められる。高齢者が多いのに、あんな超高層ビルに住んでいて、エレベーターが動かなくなったらどうするんだ。何か月分も必需品を備蓄しているんだろうか?悪いことは言わない、直下型地震が来ないうちに引っ越しをするほうが良い!政府は本当にノンキな連中ばかりだ。足元に火が付いても気が付かないのと違うか?


ポインセチアの葉を赤くする

ポインセチアの挿し木苗を、友人から頂いた。かねてから花屋で見ては欲しいと思っていたが、メキシコ産で温度管理が難しそうだ、と聞いていて、手に入れずにいた。なにしろ夏場は35度以上が当たり前の当地方だが、冬になるととたんに態度が一変する。雪が多く、鉄道はラッセル車を準備し行政は雪あけの契約を土木業者と結ぶのが当たり前。大寒波が襲来すると気温はマイナスになる。最高に寒かったのはかなり前だがマイナス9度を行ったこともあり、普通の寒波でもマイナス5度は行く。冬越しがなかなか難しそうだ。私は大型カトレアやセントポーリアを作っているが、彼らは温度さえかけてやればガラス越しの日向を望まない。午前中の2時間ほど差し込む太陽で我慢してくれる。しかし、ポインセチアはとにかく太陽光を欲しがるらしい。趣味の園芸をテレビで見ていて、園芸の先生がそのようなことを言っていた。だから、ホームセンターや花屋の華麗なポインセチアの鉢植えを眺めるだけで辛抱していた。そこへ、友人から要らないか、というメールが入った。これは作ってみろ、という神のお勧めに違いない!要ります!と返信した。苗はすぐに送られてきて、開けると、そこそこの大きなお方が三本も入っている。外で台の上に並べていると、となりのNさんちの奥方が通りかかった。一本上げて、もう一本はそのもう一軒隣の花好きな同級生に上げた。残りの一本を少し小ぶりな4号プラ鉢に植え付けた。7月上旬の話である。それから数か月、ひどい猛暑のなか、ポインセチアは一週間だけ半日蔭に置いてもらったものの、根付いたのを見計らって、ガンガン照りの所へ置かれ、遮光ネットもなしで、それでもさすがにメキシコ出身、葉が落ちることもなく秋を迎えた。友人が短日処理を始めた、と言ってくる。自分もやってみたかったが、夕方5時から翌朝8時まで段ボール箱をかぶせて人工的に暗くするとかで、時間を守らないと、葉が赤くならないそうだ。なんと冬越し以上にやっかいである。そうこうしているうちに10月になった。ちょうど良い、今日から始めるか、と段ボールに黒いゴミ袋を被せて、明かりが漏れないようにしてから夕方5時に、東側のカーポートに移していたポインセチアの鉢に被せてみた。翌日は8時に箱を取り除いて、「おはよう、朝だよ!」と言いながら起こす。夕方の5時はわりとせわらしい。絶対に忘れてはならないと携帯の目覚ましにセットした。17時!これはついうっかり、の失敗を避けることができた。形容し難い音がするのだ。何事が起ったのか、とびっくりさせられることが最初の一週間は続いたが、そのうち慣れてきた。もうすぐ短日処理を始めて一か月になろうとしている。葉は店屋の鉢ほどではないが、5枚くらいは真っ赤に染まってきた。最低でも40日、できれば二か月間続ければ良いそうだ。ネットの記事には、べつに箱を被せなくても翌年の2月ごろには赤くなる、と書いてあったが、どの程度になるのかわからない。なにしろプロが栽培した物しか見たことがないのである。冬場はあまり日が当たらない我が家なので、照明だけが頼りだが、LED照明に変えようか、と思ったりする。居間にあるたくさんの観葉植物やこれから移動して来る洋ランなどが喜ぶのではないか、と考えている!おとなりさん達の苗も、なかなかに立派になったが、人口の夜にはしてもらっていない!

核廃棄物を仕舞う場所

最近、海の真ん中のヤマネコが住んでいる島で、原発のゴミを捨てられるか、否かを調べる、お上の提案に手を上げようか、どうしよう、と悩んでいる自治体が話題になっている。手を上げて、それでは地域を調査させてもらう、とお上が返事をくれたからといって、そこがゴミ捨て場になるわけではない。あくまで調査である。しかし調査にはあちこち掘り返したり岩を割ったりして、住民に迷惑をかけるからと、お上が迷惑料を払ってくれるのだ。それも、10万や20万ではない。何億というカネを包んでくるのだ。もっとも、核のゴミを仕舞っておくのだから、日本国中の原発から出たもので、その原発が儲けたカネから出しあうのだと思っている。だが、手を上げた自治体の住民はほぼ半数が反対だ。で、自治体のトップ、町長とか市長になるが、彼らは「調査を許可しただけですよ、決定などさせませんから」ご安心を、と続くのだろう。お上の形振りかまわない焦りが目に見えるようである。そして、ずるい自治体である。カネだけふんだくろうという魂胆だ。調査費の名目で数億円。みみっちい話である。どこの地域が一番適しているかを、さっさと国が調べて当たりをつけたら、国の国家予算に匹敵するカネで買収して、その自治体に住んでいる住民一軒当たりに100億円くらいを提供する。なるべく人の少ない、限界集落みたいな先が見えている町村を狙えば、1兆円もかからないのでは?それくらいやらないと、核のゴミ捨て場は未来永劫決まらない!反対するのが目に見えているのに、お上は馬鹿な連中ばかりだ。やっぱり、あーだこーだと言っている間に、自分の出る幕がなくなるから、はい、では次の議員様に引き継いで交代!だ。議員さまはほぼお年寄りが多いから、先が見えている。たまに若い議員さまもいるけど、核の仕舞えないゴミのことをどれだけ真剣に考えているのかわからない。あと何年かしたら、高齢者がどんどん死ぬから人口がガクンと減って、誰も住民が居なくなる自治体ができてくる。そこを国有化して、ゴミ捨て場にしよう、などと考えているのかもしれない。早くしないと、福島の処理水みたいにタンクだらけの日本になるかも?原発のゴミはタンクに入れるのも一苦労だろう。いったい何mの厚みがある鉛の入れ物を作れば可能なのか?どこやらの大国が狙っているという、日本の南の島に夜、こっそりと捨てに行ったらどうか?こっそりと、泳いで夜の間に上陸して、岩の間に岩に似せた入れ物の中に入れて、転がしておいてもわからない。ヒトが泳いでウロウロしても、レーダーには引っかからないだろうし、名案ではないか!

むかしの運動会

むかしの運動会はにぎやかだった!70年ほど前の山奥にある小中合同の運動会で、人数が少ないから午前中で終わってしまい、午後からは村総出の村民大会をやっていた。まだ幼稚園だったから、出番はあまりなかったが、当時は娯楽の少ない時代で、映画館もなくて、映画は学校の講堂とか公民館を借りてやっていたころだ。テレビなどは論外、ただ我が家にはラジオがあった。運動会は今みたいに春や初夏にやって、熱中症で救急車を呼びつけることもない。だいたいが農家の稲刈り終了後に行われていた。だから10月の中旬ごろで、天気は良い。毎年、運動会の日は大方決まっているので、親が学校からわら半紙にガリ版で刷ったプリントを受け取り、ブツブツ言いながら我が子のために運動会の小物づくりを始める。最初は日の丸の旗作りだ。割りばしに半紙を切って巻き付け、真ん中に赤い日の丸をつける。母はいつも湯呑茶碗を伏せて丸を書いていた。赤い色は絵の具だったと思う。幼稚園児がいる家は必須だった。四歳上の兄がいたので玉入れの玉を二個作って持ってくるように、というお達しで赤と白の玉を作らねばならない。この球は毎年作って献上するのに、どういうわけかちっとも増えなかった。紙を硬く丸めて作るので、古いものは壊れていくらしい。プログラムには小球バスケットと書いてあったが、誰も玉入れと言っていた。幼稚園の演技は短いダンスと大玉転がし、そしてメインはパン拾いである。パンはアンパンとクリームパンが白い紙の袋に二個入っていた。今ならビニールの袋に入るのだろうが、当時はモノのないころで紙袋だ。大玉は先生たちが日夜奮闘して作った物。小学生では初めのころ紅白の区別に男女ともハチマキを使用していた。勿論、親が紅白の布地をどこかから調達してきて袋縫いするのだ。裏表で色を変えたリバーシブルである。何年かったって、田舎も少し裕福になってきたころ、女子はハチマキ、男子が帽子と決まった。男子の全員演技にハチマキ取りと言うのがあって、騎馬戦の一種で体重の軽い男の子が上に乗り、相手とつかみ合いをやってハチマキを奪うのだ。弱い子は騎馬から落馬して擦り傷の一つや二つは当たり前だった。旗取りというのもあって、長いコイノボリのポールみたいな柱を数人の男子が支えている。敵のポールによじ登りみごと旗を取って来れば勝ちなのだ。運動会の花形はやはりリレーで、男子女子と別れたり、混合の年齢別などでは親も地区のニンゲンもコースわきまで出てきて声援した。レースは最後の方なので、これが終わると昼ご飯を食べて、次は村民大会である。この大会では、毎年どこかの地区とケンカになるのが恒例だった。揉めに揉めて、地区ぐるみ帰ってしまうことも珍しくない、熱の入れようだ。すごい金額の賞金が付くわけでもないのに、やはり、本当に娯楽が少なくて、皆楽しみに待っていた大会だったからか?村民大会の華は俵担ぎである。30キロのコメが入った俵だ。それを担ぐレースである。屈強な若者でないと担ぐだけで精いっぱいなんてことになる。私は父が俵を担いで走っている所を覚えているが、残念なことに写真一枚もない。我が家にカメラが来たのはもっと後の話だ!

Gセブンサミット

Gセブンサミットが始まった!侵略を受けている北国からも、急遽トップが来られるという。サミットの大切な話は多いが、大国から理不尽な侵略を受けた国を、正義ある民主主義の国は応援してしかり、と思う。けれども、テレビや新聞のニュースを見て、心の奥底がこそばゆい気になるのはなぜだろう?それは米国に匹敵する大国が、侵略者にすり寄っているのを見たし、そうかとおもえば侵略されている国に使者を送って、中立を装ったりしているからだ!実に信用ならない!まあ、昔からそうだったが。だいたい国同士なんて昨日の友は今日の敵である。良いことがないとわかれば、すぐに回れ右をする。口ばかりだ。初めのうちは揃って手を差し伸べるが、時間がどんどん経って、いつ終わるやらわからなくなると、応援している方も疲弊して来る。だから、サミットの参加国は大変だろう。思っていることを言って、自国に不利を被ることは避けなくてはならない。だから、キツネとタヌキのだましあいに見えてきてしまう。早く戦争を終わらせなくてはならない。チマチマと小出しの応援をしている欧米には腹がたつ。そもそも、米国が侵略しても武力の横車は押さない、などと明言するものだから始まってしまったのだ。ガツンと一発手痛い制裁を食らわせてやりたいだろうが、なにしろ彼の国は核大国である。そうでなくても、旗色が悪くなってきては核攻撃をチラつかせている。ならず者の国だ。戦争が終わっても、当分は信用も何もない情けない国に転落だ!頼みの化石燃料など資源輸出も、優秀な代替エネルギーが出てくれば、もうお呼びでなくなる。国を疲弊させ、国民を分裂させ、しまいに国そのものがなくなってしまう。もし、彼の国が核を持っていなければ、とっくの昔にナトーから総攻撃を受けて、昔の日本みたいに国中焼け野原になっていたかもしれない。核を持っていなければ、いくら軍隊の数が多く武器も心配がないほど持っていても、戦争を仕掛けたりはしなかったはず。核の力はスゴイのである!使わなくても、チラつかせるだけで大いに役立つのだ。だから、我が国の近くの最近、人工衛星と称して何発も打ち上げ実験をしているあの国にもキツイお灸をすえたいけど、できないでいる。核をもっていなければとっくに米国のお灸が据えられていそうだ。サミットの七か国には核を持っている国がいくつかある。今回我が国の広島で開催され、核廃絶の声がさらに声高に挙げられたのだが、これも私の心を痒くする原因なのだ。核は持ったが最後、手放したのは今、惨禍に会っているウクライナくらいのもので、絶対に手放さない。手放せばイラクウクライナみたいに侵略される。手放してはいけない見本みたいな現実だ。ヒトはそもそも好戦的な生き物なのだ。歴史が証明している。武器を発明して、それがだんだん強烈になり殺傷能力が上がったモノとなってきた。核はその集大成だ。核以上に強烈な一発で国が吹き飛ぶようなモノができれば、核は廃絶へと向かうかもしれないが、今のところは無理な相談に思える。建前と本音は異なるのだ、と言いたい。