鳥と山野草の話

鳥類と山野草、主にシダ植物を書いたりします。

むかしの運動会

むかしの運動会はにぎやかだった!70年ほど前の山奥にある小中合同の運動会で、人数が少ないから午前中で終わってしまい、午後からは村総出の村民大会をやっていた。まだ幼稚園だったから、出番はあまりなかったが、当時は娯楽の少ない時代で、映画館もなくて、映画は学校の講堂とか公民館を借りてやっていたころだ。テレビなどは論外、ただ我が家にはラジオがあった。運動会は今みたいに春や初夏にやって、熱中症で救急車を呼びつけることもない。だいたいが農家の稲刈り終了後に行われていた。だから10月の中旬ごろで、天気は良い。毎年、運動会の日は大方決まっているので、親が学校からわら半紙にガリ版で刷ったプリントを受け取り、ブツブツ言いながら我が子のために運動会の小物づくりを始める。最初は日の丸の旗作りだ。割りばしに半紙を切って巻き付け、真ん中に赤い日の丸をつける。母はいつも湯呑茶碗を伏せて丸を書いていた。赤い色は絵の具だったと思う。幼稚園児がいる家は必須だった。四歳上の兄がいたので玉入れの玉を二個作って持ってくるように、というお達しで赤と白の玉を作らねばならない。この球は毎年作って献上するのに、どういうわけかちっとも増えなかった。紙を硬く丸めて作るので、古いものは壊れていくらしい。プログラムには小球バスケットと書いてあったが、誰も玉入れと言っていた。幼稚園の演技は短いダンスと大玉転がし、そしてメインはパン拾いである。パンはアンパンとクリームパンが白い紙の袋に二個入っていた。今ならビニールの袋に入るのだろうが、当時はモノのないころで紙袋だ。大玉は先生たちが日夜奮闘して作った物。小学生では初めのころ紅白の区別に男女ともハチマキを使用していた。勿論、親が紅白の布地をどこかから調達してきて袋縫いするのだ。裏表で色を変えたリバーシブルである。何年かったって、田舎も少し裕福になってきたころ、女子はハチマキ、男子が帽子と決まった。男子の全員演技にハチマキ取りと言うのがあって、騎馬戦の一種で体重の軽い男の子が上に乗り、相手とつかみ合いをやってハチマキを奪うのだ。弱い子は騎馬から落馬して擦り傷の一つや二つは当たり前だった。旗取りというのもあって、長いコイノボリのポールみたいな柱を数人の男子が支えている。敵のポールによじ登りみごと旗を取って来れば勝ちなのだ。運動会の花形はやはりリレーで、男子女子と別れたり、混合の年齢別などでは親も地区のニンゲンもコースわきまで出てきて声援した。レースは最後の方なので、これが終わると昼ご飯を食べて、次は村民大会である。この大会では、毎年どこかの地区とケンカになるのが恒例だった。揉めに揉めて、地区ぐるみ帰ってしまうことも珍しくない、熱の入れようだ。すごい金額の賞金が付くわけでもないのに、やはり、本当に娯楽が少なくて、皆楽しみに待っていた大会だったからか?村民大会の華は俵担ぎである。30キロのコメが入った俵だ。それを担ぐレースである。屈強な若者でないと担ぐだけで精いっぱいなんてことになる。私は父が俵を担いで走っている所を覚えているが、残念なことに写真一枚もない。我が家にカメラが来たのはもっと後の話だ!