鳥と山野草の話

鳥類と山野草、主にシダ植物を書いたりします。

田舎の病院

我が家の前には11階建ての大病院がそびえている。ゆっくり歩いても裏の西口まで5分。走れば1分ほどで駆けつけることができる、地域の基幹病院である。しかし最近は医師不足で病院も大変らしい。この病院は、むかし、赤痢とかチフスとかの感染者のために作られた病院だった。市街地から離れた田んぼの真ん中にポツンと建っていた。戦前の話で、戦後、私が物心ついたころは木造二階立ちで障子が取り付けてあった。内科に外科、小児科と産婦人科の四つほどしか科がなかったと思う。そして、患者よりも医師の方が大勢いた。何年かして日本が少し裕福になってきたころ、眼科ができた。入院病棟も増えて、患者数も多くなり、診察室を改築して病院らしくなってきた。患者が多かったのは内科で、次が小児科だ。医師の花形である外科はたまに工事現場の事故とか、林業や鉱山事故で担ぎ込まれてくる患者の他は外来があまりなく、センセーはヒマそうだった。なにしろ車が普及していなかったから、交通事故などめったにおこらない。だから、公益消防がなく救急車もない。後に病院が救急車を買って、急患に対応した。小学校6年生の時、太ももにおできができて、しばらく我慢していたが治らずにひどくなり、眠れぬほどの痛みになって、仕方なく病院の外科に行った。外科の医長センセーがうれしそうに「こりゃ、切って膿を出さんと治らんな」とおっしゃる。「切ってやって下さい」ついてきた母親がためらいもなく言う。「じゃ、そこに寝転んで」と診察室の寝台に転がされた。スカートを履いていたから、パッとめくって、看護師がアルコールで消毒をする。母親は突っ立って見ていた。センセーが注射器をオデキの周りにブスブスとさして、一周するころにはしびれてオデキの痛みがなくなった。寝転んでいたので見えなかったが、2分か3分もしないうちに「はい終わり、たくさん膿が溜まっていたぞ。毎日、洗いに来てね」と言われた。傷口は十文字に切られてまだ中にシュークリームそっくりのネバっとしたモノが見えた。看護師が黄色い消毒薬のついたガーゼを被せて、油紙を乗せ包帯を巻いてくれた。大きな傷口だったけど、オデキの痛みよりはマシで歩いて帰った。当時は病院から10分ほどの距離の商店街に住んでいて、父が商売をしていたので自家用車があったが、迎えにはきてくれなかった。センセーもタクシーで帰れ、とは言わなかった。けっこういい加減な外科医だ。診察室で親とはいえ野次馬OKの手術なんだから。30年ほど後、私の姪が腕の付け根にできた小さなイボを取り除く手術では、来ていた服を脱がせて術衣に替えさせ、頭は髪の毛を覆うためキャップを被せて、「さあ、お家の方は外でお待ちください」ときた。どんな大層な手術を受けるんだ、と内心驚く。姪はすぐに出てきた。自分のオデキの時を思い出して、えらい変わりようだ、と思った。しかも手術室で!そのころ、病院はさらに大きくなり、皮膚科、泌尿科、胃腸科、心療内科などが増えていた。入院病棟はふくれあがりベッド数400床に生まれ変わった大病院である。当時はまだバブル期で医師も多かった。11階建てになったのは15年ほど前で、そのあと急に医師が少なくなり、市に救急車はできたけど、タクシー代わりに救急車を使わないように、などというポスターが院内のあちこちに貼られるようになった。病院の敷居が随分高くなり、最近ではかかりつけの町医者から紹介状を持ってこないと、7000千円を徴収する、なんてのたまう。なるべく来るな、ということらしい!