鳥と山野草の話

鳥類と山野草、主にシダ植物を書いたりします。

追憶の母 2

髪結い師の資格を取って、奉公先から実家に戻ってきた母は18歳くらいだったと聞く。実家にはまだまだ食べ盛り、育ち盛りの兄弟姉妹がたくさんいて、家は相変わらず貧乏だった。祖母が汗水たらして作ったコメは、すべて年貢に巻き上げられ家族は米粒よりも麦やヒエ、アワの方が多い雑穀米を食べていた。近所の農家には田畑を耕す牛がいたのに、母の実家は貧しくて牛が飼えない。代わりにヤギがいた。田畑を耕す時は牛を借りてきたようだ。ヤギは乳を出してくれたが、それとて子供たちの口には入らない。ビンに詰めて近所の欲しい家に販売し、何がしかのカネを得る。学校に行っている子たちは学用品にカネが要った。今のように生活保護などない頃の話で、働かない亭主に大勢の子供、貧しい家庭。祖母は大変だったに違いない。そこへ母が資格を携えて戻ってきた。髪結い、婚礼、着付け賜ります、という手描きの看板を家の入り口に出し、それを聞きつけた村人たちが祭りで客が来るから、正月になるから、髪が乱れたからと要請が来るようになった。当時、客は髪結い師を呼びつけて、母が道具を抱えて客の家を訪問する、というやり方だったそうだ。しかし、髪結い師など田舎のことだから、そんなにいるわけではない。忙しい毎日になり、それとともに祖母の家は母の働きでカネが入って来るようになった。特に婚礼の依頼だとけっこうなカネになる。行ってきます、と言って道具を持ち、迎えに来たハイヤーに乗り依頼人の家に行く。ハイヤー代は依頼人持ちである。家では髪結いの先生がご訪問というので座敷に通され、座布団を出されて茶を勧められる。そこへお嬢さまがお出ましになり、挨拶の後、帳台に入っていよいよ髪結いである。帳台とは三畳の間くらいの座所というか寝所というか、今ではタンス置き場のような控の部屋だ。お嬢さまは最初、桃割れという髪型に結う。1時間ほどで結って、一日目はこれで終わり。それから婚礼の着物を出してもらい、抜かりがないか点検したり家族の着物を見てやったりする。二日目、婚礼の日、いよいよ桃割れを崩して高島田に結いつける。これは時間がかかるそうで、カモジを足して結い上げた後にカンザシなどで飾り付けて着物を着せて行く。髪結い師をハイヤーで呼びつけるような家は、大概が分限者(金持ち)なので、花嫁衣装は振袖に五つ紋の正装。さらに打掛を着せるなら、庄屋とか豪商など名家の金持ちである。母が婚礼で打掛を着せるようになったのは戦後の復興を成し遂げて、日本が豊かになってからだ、ということだった。着付けが終わり花嫁に綿帽子を被せる。衣装は今みたいに派手な柄ではなく白生地の純白、白無垢という衣装だ。そして近くなら歩いて行き、少し遠方なら馬に乗ったり、牛の時もあったそうな。髪結い師をハイヤーで迎えに行っても、娘の花嫁行列には歩きとは、なんともケチなと思うが、親としては娘の花嫁姿を見せびらかしたい、という気持ちだったらしい。勿論、遠方なら公共交通機関を使った。乗り合いバス、汽車などである。私は戦後生まれ団塊の世代だが、子供の頃、バスや汽車(当時は石炭で走るSLだった)に乗ったとき、正装した花嫁さんに出会ったことがある。