鳥と山野草の話

鳥類と山野草、主にシダ植物を書いたりします。

追憶の母 7

母の実家の弟が、ついに軍隊に獲られた。父が知って任地から義弟に手紙を書いたそうだが、内容はけっして手柄を焦るな、なんとしても生きて戻るように、と言い聞かせたらしい。しかし、彼は戦地にやられて戦死した。手柄を焦ったかどうかはわからないが、父よりもずっと若かった。祖母の家に行くと、今でも馬に乗って軍服を着た凛々しい叔父の写真が仏壇の間に飾られている。父からの手紙は良い知らせなどない。沖縄に行くことになった、という連絡が入った頃、広島と長崎に続けて新型爆弾が落とされた。ニュースはラジオからで、庄屋の家にあったそれから、すぐ回覧板で村中に知らされる。「沖縄は陸上戦で大変らしい、あいつも生きては帰れんな」何度も戦争に駆り出されたことのある祖父が、夕食後にそっと口走った。「もう、日本は負けるだろうが、はよ、終わってほしいな」憲兵に聞かれたら、ちょっと来い、は間違いなしの言葉だ。負け戦の噂があちこちで飛び交う。そんな時、母の二番目の弟が召集にあった。まだ十代の終り、あと半年ほどで二十歳だったようだ。往生際が悪いことである。出征の日には村中の人間が集まり、バンザーイと言って送り出す。実にばかばかしい話だ。

ところが、そのに三日後に庄屋さんがラジオ放送を聴きに来るように、というフレを出した。皆が集まると外に机が出してあり白い布がかけられて、その上にラジオが鎮座していた。ガリガリ、ピーピー言う中で、例の玉音放送が始まったのだが、あまり雑音がきびしくて、母は何を言っているのか意味が解らなかったそうだ。数人の年より連中が泣いていたが、祖父は笑っていたとか。「終わったんじゃ!無条件降伏じゃよ!どうなるかわからんが、日本人を皆殺しなんかにはせんじゃろ」と祖父は帰ってから晴れ晴れした顔で言った。それから数日後、父が復員するという連絡が入った。沖縄に行く予定の船が兵隊を迎えに来る途中、米軍に撃沈されて行けなくなったらしい。悪運の強い父である。母の弟はバンザイを言ってもらっただけで、一週間もしないうち戻ってきた。祖父は「復員兵には軍隊から土産がある」と言っていたが、確かに父が持って帰ってきた物は色々あって、戦後の物不足のおり、物々交換に役立ったそうだ。