鳥と山野草の話

鳥類と山野草、主にシダ植物を書いたりします。

追憶の母 1

母は大正、昭和、平成を生きた昔人間であり、右足が悪い障害者だった。普通、歩く時は足の裏が地面に付くが、彼女は足首が90度以上ねじれていて、足裏が横を向いており足の甲を地に付けて歩く。足に合う靴やサンダルなどなかったので、下駄や草履の鼻緒にねじれた足を引っ掛けて歩いた。聞けば生まれた時からそうだったと言うのだが、私は祖母(母の親)が赤ん坊を落っことすか、うっかり踏んでしまいケガをさせたのだろう、と思っている。母は山奥のあまり豊かでない農家で生まれた。それも祖母が恋愛をして結婚の約束だけで生んでしまった俗にいう私生児だったそうで、相手の男性は母の家より格上だったらしく猛反対にあい、結婚できなかったようだ。何年かしてふもとの貧しい家に子連れで祖母は嫁に行った。その頃はすでに母の足は悪かったらしい。よく嫁にもらってくれたな、と感心したが、祖母は写真で見る限り美人だった。だから義理の祖父は気に入ったのだろう。嫁いでいじめられたというのは聞かなかったが、貧乏で、しかも祖母のダンナは体が弱かったのだ。いつも床に就いていることが多く、色々聞くところによれば喘息だったみたいである。今のようにステロイドや鎮咳薬などないころで、咳を止めるにはせいぜいオオバコの種を煎じて飲むくらいが良い所だ。代わりに祖母は働いた。地主から借りている田畑を使って農業をやり、合間に土方にも出て金を稼いだ。ところが貧乏子だくさんとはよく言ったもの。喘息持ちであまり働けない亭主なのに子作りは上手だったらしい。子供が次々に出来て、母は今の子が幼稚園くらいの年齢には、子守りに家事にと忙しかったそうだ。足が悪い子だから、などと大目になど見てもらえない。こんにちなら幼児虐待だ、とマスコミが取材に来たかもしれなかった。ただ、義理の父はとても優しく事あるごとに可愛がってくれたそうな。だから、母は子供たちの世話ができたのだろう。弟や妹は全部で7人、母も入れると8人の子供たちで、全員戦前生まれだから上の数人は小学校止まり、下の数人が中学まで行ったかどうか?しかし、母は足が悪かったので、将来ヨメのもらい手がないかもしれないと、祖母は案じた。亭主がいなくても生活ができるように手の職を、と髪結いの資格を取るために30キロ北の海辺に近い町の髪結い屋に、奉公に出された。尋常高等小学校を出させてもらい、それから奉公にいったのだから12歳くらいだろうか?寝食昼寝付きと言いたいが、給料はなし、盆正月にスズメの涙ほどの小遣いをもらい、家の家事万端を行う。ただ、海が近く食事は毎回魚など海産物で、母にとっては超ごちそうだった。よく太って、里帰りをしたとき祖母が良い物を食べさせてもらっている、と泣いて喜んだそうだ。食事が良いのは幸せの一つだろうが、その店のばあさまが、かなりのケチで口うるさいヒトで、それだけが気に食わなかった、と母はこぼす。店の主人はやさしかったそうだ。当時、女性はパーマなんか当てないしカットもしない。文字通り、髪を結うのである。母が習ったのは主に婚礼の髪結いと着付けで、桃割れ、丸髷、高島田などを主に結った。その当時はカツラなんか使わず、皆、自前の髪を結って婚礼に臨み、奥さんになったら丸髷を結う。昭和に入り満州事変だのなんだの、とキナ臭くなり出し女性は髪を結ったりしなくなり、西洋の髪結いを学ばなければやっていけなくなった。母は5年間奉公して資格を手に入れ実家に戻る。