鳥と山野草の話

鳥類と山野草、主にシダ植物を書いたりします。

昔の遊び ゴム飛び

子供のころ、モノのなかったころに流行った遊びにゴム飛びというのがあった。今頃の子供は聞いたこともない遊びだと思うが、当時は主に女の子の遊びに入った。ゴム飛びと言う名の通り、ゴムを引っ張っておいてそこを跳び越すのだ。ゴムはパンツのゴムのように白い繊維で覆ってある物ではなく、生ゴムである。輪ゴムがそれになるので、生ゴムの長いのが手に入らなかったら、輪ゴムを鎖状につないでも良い。二人の子供がピンと張ったゴムの両端を持つ。互いの距離は2mほど。生ゴムの太くて長いものなら2m50㎝でも良い。それを他の子供たちが跳び越す遊びで、初めは持ちての足の甲の高さで引っ張り、跳び越す連中が次々に飛んでいく。次の高さは膝頭で、これも大抵の子は楽々に跳び越せる。次は腰の高さになり、この辺で背が低い幼稚園クラスの子には跳び越すのに難しくなってくる高さだ。そこで上級生の楽飛びをしたお姉さんが跳び越すときに片手でゴムを押さえて低くしてやっても良い。その次は肩の高さに跳ね上がる。これを跳び越すには竹竿でも持ってこないと無理だが、背の高い子がゴムに手をかけて低くするのが許される。小さい子を飛ばすとき大きい子が飛びながら手をかけるのとは違い、ゴムの前で手を伸ばして低くするのだ。小学生の高学年や中学生なら大概手が届く。そうして全員が跳び越し、さあその次である。次は頭の高さだ。持ちてがチビなら全員楽勝だが、背の高い子が持ちてだと、跳び越す方にも高身長の子が一人は欲しい。誰かが代表でゴムを捕まえて低くすることができれば良し、もし跳び越す方がチビばかりだと、この辺でギブアップになる。頭の高さも無事跳び越せたら、次はゴムを持った腕を高く上に伸ばす。かなりの高さになるので、跳び越す方は飛びついてゴムを掴み取れれば良い。もう、飛びつくという行為が許されるのだが、その次は持ちての背伸びだ。背伸びをすると15センチは高くなり、飛び上がっても届かない時がある。私はいつもクラス一の高身長だったので、ゴム飛びの連中から助っ人を頼まれた。仲間以外のニンゲンを呼んできても良いのである。中学三年の高身長の子、男の子でも良い、引っ張って来てゴムを掴んで低くしてもらえればOKだ。だから、遊ぶときに飛びてと持ちて互いに一人は背の高い子をゲットしておく必要がある。もし、飛んでいくとき足を引っかけたりして下手な飛び方をすれば、即、持ち手に代わらされる。持ちてが背伸びをした時、だれも飛べなかったら持ちてと交代する。飛ぶときは後ろ向きに飛ぶとか、逆立ちをして足をゴムに引っかけることも可能だ。なかなかに奥が深い、しかも体力の要る遊びであった。ゴム飛び用の生ゴムは当時の玩具屋さんや駄菓子屋などで購入できた、なつかしい遊びである!

東京五輪の開催は賭け!

ケチの付き通しだった東京五輪。国民の半数以上が中止に賛成で、さらにケチの上乗せであるが、開催に賛成の人々もいるのを忘れてはならない。私は誘致した時から、また金食い虫を引っ張って来て!と思ったものだ。どうせ利権が絡んでいるのだろうことは見え見えである。カネのかからない小さなオリンピック開催を目指す、と言っておいて予算がドンドン膨れ上がった。国立競技場もしかり!前の競技場を少しリフォームして使えばよかったのに、五輪で懐を肥やすニンゲンが相当いる。半面、コロナで都のカネを使ってしまい、知事さんははらわたが煮えくり返っているだろう。五輪中止となればさらに思わぬ出費を迫られる。どんなことがあっても開催にこぎつけねば!なのに聖火リレーの走者返上が次々に現れる。本当に体調が悪くて返上するのなら仕方がないけど、世論の尻馬に乗ってのことならとても賛同しかねる。芸能界の人間なら今後、二度と応援したくない。テニス界のトッププレイヤーも尻馬にお乗りになっている口だ。彼らはオリンピックなど頂点ではないのだ。四大大会というその上を行く大イベントがあるのだから。しかし、そうではない種目の参加者は四年に一回の五輪に出場し、メダルを取る、できれば黄金色に輝くメダルを狙うのが唯一の望みなのだ。どの種目も世界大会はあるが、テニスの四大大会ほど権威はないだろう。彼らにはオリンピックが最高峰なのである。だから、軽々しく中止を視野に入れて、など口が腐っても言えないのだ。年齢も今回が最後のチャンス、と言う方がいるはず。

オリンピックが中止になったことは過去にもある。戦争のためである。東京で開かれる予定になっていたようだ。やっと第一回にこぎつけることが出来たのは1964年。当時、私は高校生だった。修学旅行から帰って来てくたくたになり、昼寝をしていたら隣のおばちゃんが聖火が来たよ、と怒鳴っていて、あわてて起きた。家の前を高校の上級生がトーチを掲げて走り抜けて行った。オリンピックが何のことかよくわからなかった頃で、三波春夫東京オリンピック音頭を賑やかに歌っていて、学校でそれに振付をして運動会で踊らされた。開催が近づくにつれて国民も五輪の話題が多くなりテレビが売れ出した。我が家は白黒のテレビだったが大きな観光旅館などはカラーテレビをロビーに設置していて、オリンピックをカラーで見られたらいいな、と思った。まさか、二度目の東京五輪が利権とウイルスに翻弄されようとは!ここまでこぎつけたのだ。間際でドタキャンして反日色の強いメディアを喜ばせないで欲しいのである!

子供の身体能力

テレビのニュースで最近の子供たちは、学校から帰ってきてから遊ぶサッカーができない、身体能力が落ちているからだ。指導している大人が嘆かわしそうに言っていた。勉強や習い事、小学生のうちから中学への受験勉強に忙しく、たまに時間があればゲームだのラインだのと、体を使わない!もっと外で子供同士、遊んで欲しい、と。

ごっこなどは体の色々な個所を使うので、身体能力の向上にとても良いそうだ。そういえば、最近の子供たちは昔のような遊びをほとんどやらない!私たち団塊の世代が子供のころは、終戦後で都市は一面焼け野原。物がなくカネもなく、皆、とても貧しかった。遊び道具にカネを出す余裕などない!その辺に転んでいるものを利用して遊んだのだ。パッチンという男の子の遊びでは、古いハガキを折って座布団のような物を作り、それを互いに叩きつけて相手のパッチンをひっくり返せたら、それが自分の物になった。石なんご、という遊びは道端に転んでいる大人の親指の爪を一回り大きくしたような小石を集めて、石を上に30センチほど放り上げ、落ちてくるまでに一つ、二つ、三つとつかみ取る。うまく取れれば一つづつ増やして失敗するまで取り続ける権利がある。私は、この遊びが苦手でいつも三個くらいしか取れなかった。男の子でも参加できて器用な子はたくさん取れる。遊び終わったら石を隠しておいて、また別の時に遊ぶのだが、その石を誰かに奪われてしまうことがあるので、上手に隠しておかないといけない。重いので家に持って帰ったりはしなかった。縄跳びなども今は上等の合成繊維製の物が手に入るが、当時はタダの物でないといけないので、荷物を括り付ける稲ワラで作った縄だ。仲間が5人くらいならそこそこの長さで飛ぶ。誰かが足をひっかけたらその子は縄を回す役になる。大勢の仲間になれば長い縄を調達してくる。大抵は農家でもらってきて遊んだ。お手玉なども親が端切れで作ってやり、それを学校に持って行って休み時間に遊ぶ。私は両手で二つのお手玉を使う技術しかなかったが、上手な子は片手で5個くらいのお手玉を放り投げて遊ぶことができた。そして皆が尊敬の眼差しを向けるのだ。男の子でも上手な子がいたが、まあほとんどは女の子の遊びであった。
冬になると体育館で先生も交えておしくらまんじゅうや、馬飛びをして体を温めた。道具など必要がないスポーツなのか遊びなのかわからない。ただ、体力が必要なことは確かだ。春と秋には遠足があり、今は乗り物を使うのが当たり前だが、当時はバスや汽車(そのころは鉄道でSL)に乗るのは修学旅行くらいで、他は山登りが一般的な、確かに遠足だった。春はちょっと遠い所の山に行く。山まで10キロくらい歩かせてそれから山登りだ。1000mくらいの山に登って頂上まで着いたら昼ご飯である。食べて30分ほど自由行動をしたら下山となる。子供は元気だが、引率の先生はさぞかしウンザリだっただろう。子供が事故を起こさないか常に目を光らせなくてはならない。登山道も当時は細く急な山道ばかりで、思い起こせば危険としか言えないような道が多かった。今ならPTAが目の色を変えて、危険だ、そんな所へ連れて行くな、とクレームの嵐だろう。しかし、そのころの親は文句など言わなかった。学校や先生に文句を言うなど無礼なことはしなかったのだ。なにしろ、三歩下がって師の影を踏まず、といった時代であった。卒業式には必ず、仰げば尊し、を合唱したものだ。そして、秋には手近な里山への遠足がある。だいたい500mくらいの山に上がった。学校生活は体力がないとできないし、子供たちの身体能力が高かったのも頷ける!

ツタバウンラン

我が家の北側には側溝がある。大川から水が引かれている農業用水で、防火用水でもあった。だから農家の都合で時おり水が止められてしまい、こんな時に火事がおこったら役に立たない用水だが、今は消火栓が張り巡らされているので文句は言わない。その側溝に沿って路地があり車は通れないが、たまにチャリンコ暴走族が走り抜けて、危ないじゃないか、側溝に落ちろ、と心の中で毒づく。それが効いて側溝に車輪を突っ込む者はけっこういた。ほとんど小学生か中学生だ。小学生低学年の登下校路になっていて、彼らは行儀よく並んで通るのに、成長するにあたって非常識な人間に変貌していくのはなぜだろうか?そのけっこう往来の激しい路地に、去年あたりから見たことのない植物を目にするようになった。二センチ強の五角形みたいな葉をつけた一見華奢な植物が、路地の端っこに生えたのだが、すぐにあちらこちらに種を飛ばして、しかも親株はツルを伸ばしてドンドンのさばっていく。石垣にも取りついてその増え方はなかなかの物だ。コロナの変異株どころではない。いつの間にか家の前の路地にまで進出していた。しかし、引っこ抜かなかったのは、その植物がとても上品でしかも可愛い薄紫の花をたくさん付けながら這っていくのが、大いに魅力的だったからだ!花だけ見ると、その辺にたくさんあるトキワハゼという雑草にそっくりだった。だがトキワハゼはツルを出したりしない。それに一年草だ。このツル性植物は雪の中でもへっちゃらで、それどころか台風シーズンになったら側溝が溢れること日常茶飯事なのに、水をかぶっても枯れたりしない。かなり図々しいお方だ。石垣を覆うように浸食した株は一面に花を付けて、グランドカバーの資格が十分にある。たぶん上流から種が流れてきて、大水が引いたときに取りついたのだろう。何という植物なのだろうか?
植物図鑑を引っ張り出して探してみた。昔買った保育社の本で5巻まであるうちの第1巻草本を探してみたが、ない!草本は3巻まである。全部探したが載っていなかった。仕方がない、頼りはインターネットだ。名前がわからないので、サギゴケに似た花のツル性植物、と打って検索してみた。するとネットの情報網はすごい!探し当ててくれたのだ。写真も出ている。間違いない!彼の名はツタバウンランゴマノハグサ科だと思ったがそれは以前の話で、今はオオバコ科に入るらしい。別名ツタカラクサ、またはウンランカヅラという。ヨーロッパ原産の帰化植物で初め北海道に帰化してから本州に南下したそうだ。まだ新しい帰化植物なのだろう。植物図鑑に載っていないのだから。この花の可愛らしさから、もしかしたら園芸植物として持ち込まれたのかもしれない。今、ヒメミゾソバがこの近辺を侵食しているが、それを凌駕しそうな勢いである。

 

ツキノワチリムクドリ

買い物から車で戻ってきた、ついこの間のこと。家は大通りから狭い路地をクネクネと入っていった所にあるのだが、広場になった辺りのとある事務所の屋根に、見たこともないド派手なトリが止っていた。日本にこんな鳥がいたのか、と思うほど美麗な九官鳥くらいの大きな鳥だ。胸から尻にかけての六割がレンガ色。赤に近い色で首までの四割はコバルトブルーである。そしてレンガ色とコバルトブルーの境に白の月の輪があり、ちょうどツキノワグマのような白い模様だ。頭は紺碧、背中は見えないが翼から肩にかけては水色がかった緑色のようだ。クチバシは先細りの少し長い上品な形で翼と同じような色に見えた。なぜ、こんなに詳しく観察できたのか、それは彼が堂々と物怖じせず、車を止めてじろじろ見るニンゲンのおばはんにたじろがなかったからだ。それだけではない、数日後、彼は私の家の玄関前の路地に降りてきて、何か地面を探しているのに出会った。私が立っていても全く気にも留めない!「何か餌はあるかい?」と尋ねてみたが、「ないな」と言っているような様子でチラとこちらを見ては地面をつつく。背中の色はやはりツバサと同じ色で、私が飼っているオカメインコくらいの大きさがあった。「何かあげようか?」と声をかけると「いや、けっこう」と言うように路地の突き当りのフェンスに止って、しばらくしてから30mむこうの映画館の大屋根に行ってしまった。

なんて鳥だろう?あんな派手な鳥なのだから、南の国からやってきた迷鳥かもしれない。中に入って急いで鳥類図鑑を出した。ペラペラとめくって探すと、あったあった!しまいのほうのムクドリのページにイラスト入りで載っていた。樹木のまばらな草原に住み、地上で昆虫を取って食べる、とある。全長約20センチ、分布はアフリカだそうだ。やっぱり迷鳥なのか?たまに同じくアフリカ近辺のトリのヤツガシラが、我が国に迷鳥としてやってきたことがある、とも書いてあった。だから、迷鳥か、と思ったのだが、まあネットで調べてみようと検索した。ズラリと載っている!どの記事も写真入りだが、私が2mほどの近くで数分間二度も見たもののほうがはっきりしていた!写真は怖い顔の獰猛そうな個体だったが、ヒト慣れをしたなまツキノワチリムクドリはちょっと優しいさわやかな感じに見えた。写真を撮っておけばよかったのだが、ガラケーを素早く向ける気が起きなかった。最近に購入した4G回線の新しいドコモの機種で、前に使っていた期限切れが5年後に来る物とは違う。とても鮮明に映るカメラを登載してあったのだから、次に出会った時にすぐ写せるなら撮っておきたい!というわけで写真をアップすることはできないが、見たい方はネットで検索していただきたい。このトリは迷鳥ではなく籠ぬけ、つまり誰かが飼っていたのが逃げ出した物の公算が強いとのこと!

腹の立つヒヨドリ

ヒヨドリは人懐こいところのある野鳥だが、図々しくて腹が立つこともある。家の周りには色々な野鳥がいて、トリが好きな者には楽しいところだ。しかし、せっかく作ったものを台無しにされてはたまらない。知り合いの農家からもらった渋柿の皮をむいて、10個ほどを二階のベランダに吊り下げた。甘くて美味しい吊るし柿を楽しみに、指折り数えて正月を待つ。童謡の文句ではないが、そのころには吊るした干し柿が出来上がるはずだった。ところが何日おきかに二階に上がって柿の状態を覗き、頭にクエッションマークが灯る。柿が一つ足りない気がしたのだ。へんだな、と思いながら深く考えずに下へ降りた。柿は毎日調べに上がったわけではないが、一つ二つと減っていき、一週間見に上がらなかったら一個だけになっていた!これはおかしい。サルでも来たか?それならいっぺんに取っていきそうなものだ、と窓を開けずに部屋の中から恨めしく柿をながめていると、犯人がやってきた!ヒヨドリだ!そいつは器用に柿を吊り下げていた縄にしがみついて、もうすっかり甘くなっているだろう吊るし柿をつつきだした。そういえば、ヒヨドリは果物が好物なのだ。これはうっかりしていたが、まさか野鳥に吊るし柿を食べられるなど思いもしない。吊るし柿はこれに懲りて、もう作らなかったが、鉢植えにしていたビワを食べられてしまった時は、大いに腹がたった。

友人に讃美歌の弾き方を教えてあげたのだが、そのお礼に何かしたいので欲しい物を教えてくれと言われた。ではビワの苗が欲しい、と言うと3日後に園芸店から買ってきたタナカビワの接ぎ木苗が届けられた。指くらいの太さの立派な苗木だ。大きな植木鉢を探し出して植えこんだ。植えて一年もしない間に実を二つ付けてくれる。期待していなかったが、二個の実はどんどん大きくなって6月には立派に食べられるほどになってくれた。食べてみると甘くて美味しい。大感激である。ビワは毎年大きくなりながら実を付けて、三年後には10個もなった。玄関の前に置いていたビワがヒヨドリに見つかって、10個のビワを収穫前に全部食べられたのは苦い思い出だ。そのころビワの木は1m50センチほどになっていた。鉢ももっと大きくして直径50センチほどのプラ鉢に入れていた。それを引きずって裏のカーポートへ避難させた。これ以上好きにさせるか、と思ったのだ。カーポートは隣の家の壁から1mくらい離れていたが屋根は母屋の壁にくっつけて傾斜させてある。雨が当たるか当たらないか、という微妙な場所にビワを置いた。夏は毎日水やりをして肥料もたっぷり与えた。その場所でビワが50個生った。20個を間引いて30個だけを育てる。せっせと世話をしたので30個とも立派な実になり、食べてみるととても美味しかった。半分をお隣さんに食べてもらう。ビワは年々実の数を増やしてくれたのだが、しかし、数年後にとうとう見つかってしまった。ヒヨドリだ!見つかったらもう実に袋をかけるより方法がない。だが、面倒くさい。そのままにしておくと、せっかく生らせた実を複数でやってきたヒヨドリに全部食べられた。トリに食べさせるために作っているんじゃないわ!ビワに対する熱意はとっくに冷めてしまい、畑を持っている山野草の友人に鉢ごと上げてしまった。思えば、玄関前に富有柿を作ったがトリに食べられた。イチジクも大鉢で植えたが、実をやられた。ビワは長く楽しませてくれたのだから、良しとせねばならないか?ナンテンピラカンサの実を食べてしまうトリもヒヨなのか?

黄砂は目に良くない!

黄砂の季節になった。とは言ってももう、ずっと前から黄砂はやってきている。わが町は日本海に近い。黄砂がやって来ると、真っ先に挨拶をしてから通り過ぎる地域、と言っても過言ではない。黄砂がお出でになると、車が汚れるからすぐわかる。スギ花粉の次くらいにやって来て、ヒノキ花粉と手をつないでいるようだ。洗濯物を外に干すなど愚の骨頂である。もう何十年も外干しなどしたことがないし、家には空気清浄機を二台置いていてフル回転させている。一台は日立の安い物だが、二年前に買ったのはダイキンで少々高かった。これは居間に置いているが、コロナが賑やかになったので良かったと思っている。黄砂も花粉も吸ってくれているようだ。日立は花粉の撃退のために購入したのだが、ダイキンはガスファンヒーターが時折臭いにおいを出すのに閉口して、上等の空気清浄機なら役に立つか、と考えて設置した。はっきり言って役には立たなかったが、そのほかの空気清浄には効力を発揮してくれている。ガスの臭いはいつもではなく、ヒーターのメーカーであるリンナイに言わせると、プロパンのガスが少なくなってきた時に付けてある臭いが、ヒーターの点火時に漏れ出てくることがあり、空気清浄機では対処できないとの説明であった。そういう微妙な臭いなどを消すには大型の設備が必要だ、とはダイキンさんの説明。

黄砂だの花粉だのと困った連中が挨拶に来るのはお断りなのだが、それは私だけではない。時おりやって来る友人も最近はこれらに閉口してきたと言う。数年前からナミダが出にくくなり、目が痒くなると言うのだ。それはドライアイだから眼科に行くことを勧めたが、本人はそうではない、と頑強に否定する。何を根拠に否定するのかわからないので、では目を10秒間瞬き無しに開けておられるか?それができればドライアイではない、と言って、試してもらう。彼女が目を開けておれた時間は3秒!立派なドライアイである。そして、彼女は目をよく擦る。右に左に、キュッキュッキュとじつに念入りに擦り続ける!一度計ってみたら20秒間はたっぷり擦っていた。こちらはあんぐり口を開けて見ていたと言ってよい。今の季節には来訪したあと、必ずやる友人の行為は危険極まりない。最近は目の具合が甚だ悪くなった、と愚痴るので、そりゃそうでしょ。今は黄砂の季節!これだけ擦りゃ、さぞかし角膜に傷が付いていることだろう。眼科に行ったほうが良いよ、と再び忠告する。「あんたんちは街はずれで、車がないと買い物難民でしょ。車に乗れなくなるとお手上げ」ヒトの忠告は大嫌いな友人だが、車に乗れなくなる、という言葉は効いたらしい。後日、立ち寄った時、眼科に行くつもりで病院に行ってきた。と寝言のようなことを言う。「保険証を忘れていてね」「眼科は予約制でしょ。予約を取ったの?」「取ってない」彼女が車に乗れなくなるのは、そう遠くないような気がした!