鳥と山野草の話

鳥類と山野草、主にシダ植物を書いたりします。

追憶の母 8

終戦を迎え、兵役に獲られていた方々が戻ってきたが、日本は敗戦国であった。進駐軍が威張っているのに物がない!母の話によれば、鉱山町には連合軍の捕虜がいたそうで、終戦になってから、街中で彼らを目にするようになったとか。別に住民に狼藉を働くわけではないが、毛色の変わった西洋人はちょっと違和感があり怖い!小さな鉱山町で解き放たれても、彼らこそ戸惑ったと思うが、物がないのは平等で、落下傘から落とされた救援物資で命を繋いだようである。彼らを迎えに進駐軍が来たのは、だいぶ後だったらしい。半ば閉山状態だった鉱山は、しばらくして稼働したが、父は軍隊生活でくたびれてしまったのか、鉱山勤めを止めてしまった。当然、長屋の社宅には居られない。家族四人、住処を見つけねば困ったことになる。ということで、とりあえず転がり込んだのは母の実家だ。古い家だが先祖が染物屋をしていたという三階建ての、今でいう古民家である。そこにやっかいになって、なるべく早く貸家を見つけることになった。母はそこを拠点に髪結い仕事で、父は相変わらず網を持って、近くの大川に魚を獲りに行き、アジカという大きな竹籠にこぼれるほど魚を獲ってきて、母に怒られた。はらわたを取って串に挿し、七輪で焼くのはすべて母の仕事なのだ。しっかりといぶしてカビが生えないようにして、一斗カンに保存する。冷蔵庫などない時代だった。獲れる魚はオイカワやウグイ、フナ、季節にはアユがヒトアミで50匹はかかった。尺アユと言って30センチほどもある大きなアユだ。川で漁をする者がいなかったからだろうが、毎日のように出かけては魚を担いで帰るので、とうとう置き場所がなくなった。カンも積み上げてある。モノがない時だ、いっそ売りに行け、と祖父が入れ知恵をしたので、30キロ北の温泉地に行ってみることにした。父と母が両手にカンを一人二個づつ持って、バスと汽車を乗り継いで出かけた。母は内心、川の魚など売れるのか、と疑問だった。海がすぐそばにある温泉地なのに、と心配ではあったが、温泉の最初に通りがかった旅館へ飛び込み、恐る恐る話を持ち掛けると、なんと、言い値で全部買ってくれた、というのだ。海がいくら近くても漁に出る者がいない。復員してきた男連中は、すっかり疲弊していて働けなかった。魚がいくらで売れたのかは知らないが、母はあの荷物を持って帰るくらいなら、どこかにほり飛ばして帰る、と思ったそうだ。魚を売ってカネが入ったので、何か土産を買いたかったが、ろくなものがない。敗戦の戦後をひしひしと感じ取った両親であった。大荷物を運ぶのにウンザリした二人は、温泉地に再度行くことはなく、近場で欲しい人に安くで魚を売りさばいた。その後、実家の近くに貸家を見つけて入り、そこで私が生まれたのだ。