鳥と山野草の話

鳥類と山野草、主にシダ植物を書いたりします。

戦時中の食糧調達

私は戦後生まれだが、四歳年上の兄は戦時中の生まれだった。都会から疎開して来るほどの田舎で、その中でもさらに山奥の鉱山長屋に暮らしていたと言う。父親が鉱山に勤めていたので、一家五人が長屋住まいだった。戦争が始まってしばらくしてから父に召集令状が来た。祖父は日清日露で戦ったという曰くつきのじい様。どちらも無事に凱旋して、その頃にもらった勲章がたくさんあった。彼はわしに任せろ、と息子を戦地に送り出し、戦時色が激しくなって何もかもが統制になり、食糧調達もままならない時世にもかかわらず、りっぱに食べ物を手に入れてきた。のちに、母親に戦争中は食べ物に事欠いたのでは?と尋ねてみたが、「全然!正月前には餅もついたしな」と自慢げに話す!へえ!どうやって物資を手に入れたのか聞いてみると「おじいちゃんが山の奥に土地を借りてな、そこを開墾して野菜や小豆をたくさん作っていたんよ」山を二つ超えて行かないと辿り着けない、超山の中を一人で開墾して作物を作ったという。誰も行かないクマやイノシシなどしか出会わない場所。盗まれることもなく、一家が食べるには多すぎる作物を、天秤棒で担って運んだ。小豆はかなりの量で、今なら農協にでも出荷するところだが、当時はカネが紙切れに等しかった。欲しいものは物々交換をするしか方法がなく、それに小豆は効力を発揮した!小豆を持って行けば何にでも交換できたそうだ。女子供とじい様しかいない家庭が、豊富な食糧と物品に囲まれて母は困ったことがなかった、おじいちゃんのおかげ、と常々言ってくれた。祖父は力持ちで、二度の戦争に出て、三度目は家族を守ると言う大役をやりとげた。戦争が終わりに近づいて、一度家に戻ってきた父は「沖縄に行くことになった。生きて帰れんかもしれんけど、後はよろしくな」と母に告げたが、祖父は平然と「しっかりとお国のために働くように」と息子を激励した。沖縄戦は苛烈を極め、最後の兵の補充に充てられたらしい。もう、負け戦の終わりが近づいてきていた。その何週間かあと、父から連絡が入り沖縄行きの船が撃沈されて行けなくなった、とのこと。母は安堵したと思うが祖父は、悪運の強い奴じゃ、と呟いたそうだ。日本中の都市が空爆焼夷弾をばら撒かれて、焼け野原になり鉱山長屋からも50キロ離れた都市の爆撃音が聞こえたらしい。写真ではどの都市もまっ平の津波がきた後みたいになっていて、ウクライナのミサイル被害など可愛いものだ、と思えるほどである。徹底的に痛めつけて、極めが広島と長崎だった。世界中が日本は二度と立ち上がれない、と思ったのも無理はない。しかし日本は立ち上がり、立ち直った。70年前の話である!父は復員してきたが、毛布や缶詰などを土産に持って帰ったし、戦後の食糧調達にも祖父と同様力を発揮した。魚を捕るアミを手ですいて投網などを製作し、川に行って魚を大量に捕ってきた。それを母が七輪で焼いて乾燥させ、一斗缶に詰めて保存したが、置き場所に困るほどになり、祖父が「温泉にでも持って行って売ってこい、邪魔で困る」と言い出した。川魚など売れるのだろうか、と母は思ったそうだが、一反風呂敷に包んで背中に背負いバスで40キロはなれた温泉地へ売りに行った。最初に恐る恐る入った旅館が、全部買ってくれたので、また持って帰らなくて助かった、ということだ。旅館なのに、客に出す食べ物があまりなくて渡りに船だったらしい。両親はカネが手に入ったので、帰りに温泉街で食事した、と後で聞いた。じい様たちに報告をしたかどうかはわからない。