鳥と山野草の話

鳥類と山野草、主にシダ植物を書いたりします。

心の平安と聖書

私はクリスチャンである。ルーテル教会派に属している近くの教会に日曜日、牧師先生のメッセージを聴きに行く。初めて知り合いになった先生は、フィンランド人の宣教師で5人くらい子供がいる家庭的な方だったが、背が高くブルネットの髪に砂色の目をした、いかにも北欧のヒトといった超イケメン先生であった。教会に東京から話の上手な牧師が来て説教するので、聴きに来ないか、と誘われてチラシをもらった。行けたら行く、といい加減な返事をしたのだが、その日の夕方、今度は家の裏で植物に水やりをしていたら、そのイケメン宣教師が日本人のアシスタントを連れて、廻ってきた。また、お会いしましたね、と言う訳で、ちょっと入ってお茶でも如何?と入ってもらった。それが縁で、集会の日に聴きに行き、今度は宣教師先生の家で聖書研究会を毎週行っているので、勉強して見ないか、と誘われた。たしか水曜日の夜7時から9時までだったと思う。清書は持っていなかったが、先生宅にたくさんあるから手ぶらで良い、とのこと。当時はキリスト教に興味があったわけではないが、聖書にはあった。中学校の図書室に子供向きの、聖書物語、とか高校の外廊下で文庫本大の福音書を売っていたことがあり、それを買って読んだので、断片的な知識を持っていた。アメリカ映画の天地創造、とか十戒などを映画館で見て感動したが、旧約聖書の話だとわかったのは、ずっとずっと後の話。宣教師先生に誑かされてキリスト教に首を突っ込んだのである。

先生の家に行くと6人くらいの若者が来ていて、中には高校生の男女もいるし、子連れの親もいる。皆、先生に釣られた者ばかりだ。聖書は旧約聖書を30分ほどで後はキリストの教えと生涯、十字架刑と復活を描いた新約聖書の説明で、その後に讃美歌を教えてもらった。伴奏は先生の下手くそなギターだったが、讃美歌といったらクリスマスのきよしこの夜くらいしか知らない。教えてもらった歌は、良い歌ばかりだった。毎週、律儀に通ったが、1年ほど経って、行くのが面倒になり、すぐそこに教会があるんだからと、車で15分もかかる先生んちへ行くのは止めて、教会に行き始めた。立派な求道者である。すると、先生が聖書を買って下さい、と言う。字が小さいので嫌だ!と屁理屈を言ったら、大きな聖書がありますから買ってきてあげましょうか、とのこと。都会まで行くついでに買ってきてもらった。大判で価格は1万円。確かに読みやすい!せっかく大枚をはたいたのだから読まねば、と辛抱して一日に12ページずつ1年かけて旧約、新約ともに読破した。

聖書にはフリガナが打ってある。文体も読みやすい。だから小学生でも読める。ところが何を言おうとしているのやら、その頃はチンプンカンプンでさっぱりわからない。教会で先生が説明しながら話された個所はわかるが、ただ読むだけなら宗教的な個所は難しくてわからない。旧約は歴史書と預言がほとんどで、映画になっているのは旧約が多い。クリスチャンでも大方のヒトは全頁を読んでいない。だから、毎週、教会でその意味を教わる。では、聖書を勉強するために教会へ行くのか?と聞かれれば、それもあるが、やはり心の平安を求めるためと、神を感じるため、身も心も救われるため、と言いたい!