鳥と山野草の話

鳥類と山野草、主にシダ植物を書いたりします。

レーシングドライバー 1

ガンで闘病生活を送っていた兄が、先日とうとう亡くなった。若いころはカーレースを趣味でやっていたレーシングドライバーで、鈴鹿サーキットを随分と沸かせたものだ。初めはジムカーナーなどを楽しんでいたが、いつも優勝していて、そのうち物足りなくなったか、サーキットを走れるライセンスを取り、カーレースをやりだした。そうなると自分の小遣いではとてもできない。車好きの父親を誑かしてカネを出させることに成功する。車は父が買い与えた日産フェアレディ2000でプロに混じってクラス優勝をした。何度も優勝や二位三位と好成績を上げるので、父だけでなく日産が喜んで、しまいに新しく出たゼットを専用に貸し出してくれるようになった。整備には専属の技師も顔を出し、始めた頃によくレース中に故障するようなアクシデントは起きなくなった。さすがプロである。鈴鹿サーキットは周囲6キロだったが、富士山のふもとの富士スピードウエイのレースにも参加して、そこはアクセル全開で走れば良いが突き当りのバンクはコワイ、と言っていた。すり鉢状になっていて目をつぶって突っ込むのだ、と聞いてぞっとしたモノである。しかし大抵のドライバーは恐怖でブレーキを踏んでしまうから、車が下の方へ降りてしまう。アクセルをいっぱいに踏み込んで高速でバンクに突入して、初めて遠心力がかかり、車が地に吸い付かれるようにバンクを走り抜けることができる、と言っていた。富士よりもテクニックの必要な鈴鹿のほうが好きだったようだ。特に12時間レースなど長時間物を得意として、優勝のトロフィーや盾などにレース名が刻まれている。私の所にも大きな高そうなトロフィーがいくつか置いてあるし、優勝旗もある。これは少々邪魔なのだが一応ケースに入れて保存している。当時は優勝してもカネをくれなかった。一番たくさんもらった金額は30万円。当時、22歳の私の給料が15000円くらいだから、マアマアの賞金か?賞品は時計が多くてオメガの紳士物を何度も貰ってくるので、家族全員オメガをはめている始末。兄が気に入っていたのはローレックスの高級時計だった。それは売り飛ばしもせず、大切にしてたまにヒトに見せびらかす。父がスポンサーでなければカーレースなどはとてもできなかったが、危ないので母は早く止めて欲しい、といつも思っていたらしい。当たり前だ!レースで高くつくのはタイヤ代で、始めたころは何週かするとダメになってしまい、棄権、という羽目になった。良いタイヤを履かせてやりたい、と父がいつもぼやいていたが、なにしろ1本25万円4本履いたら100万円、というファイヤーストーンのタイヤが最高だった。日産が援助してくれるようになってからは別の問題で、やっぱり気に入ったタイヤが履けなかったみたいである。会社同志のつながりがありダンロップを履いて、それでレースに臨むことが多くなったらしい。しかし、成績が落ちることはあまりなかったし、給料をもらっている訳でもない。あくまでアマチュアであった。SCCNという日産のスポーツカークラブに入っていて、何度か会長をやったりもした。カレンダーにもなったが、コースを走っている所を望遠レンズでプロが写したものなので、顔がはっきりしない。車の宣伝なのだから仕方が無い、と本人は言っていたが、思い返せば随分青春を謳歌している!車関係の本にも写真入りで載ったし、生きていた証しがたくさんある!羨ましいことだと思う。良かったじゃないか!