鳥と山野草の話

鳥類と山野草、主にシダ植物を書いたりします。

50年前の国産車

車の免許を取って55年たった。高校を卒業して都会の専門学校に行っていたが、父から仕事が忙しいから戻って手伝え、と言われて仕方なく1年で田舎に帰った。車が使えないと困るから免許を取れ、自動車学校に申し込んでおいたから、と一方的である。車は乗せてもらう方で、まさか自分で運転することになるなんて思ってもみなかった。しかし父親の言うことは絶対なのだ。会社から3キロ離れた自動車学校に入学したのだが、50人の生徒の中で女性は5人。つまり1割。ひと月で卒業して公安委員会の試験を受ける。実技試験は免除で学科だけだが、入学して最初の週が学科の勉強だった。最初の日の午前中は構造の勉強。教室の隅に車のボンネットを開けた模型がデンと置かれていて、先生が説明してくれるのだが、チンプンカンプンでさっぱり理解できない。男性たちは興味シンシンだったが1割の女性陣は皆似たようなものだ。講義が終わった後、五人の同性たちは深いため息である。同じ学科でも道路交通法を習う法令は、まあ社会のようなもので意味はわかった。構造も一週間後に試験があり70点以上取らないと実技講習へ進めない。つまり、車の運転を習えないということだ。教科書を抱えて帰ってから父や兄を相手に、構造の勉強をした。覚えておけばいいんだ。丸暗記しろ、試験が終わったら忘れてもええ。彼らは免許さえ取れれば良し、と思っているらしい。わけが分らぬままに暗記して、学科をクリアした。実技は講師がめったにない女の子相手なので親切に運転方法を教えてくれた。当時の車は2000㏄のクラウンで、ギャチェンジにクラッチつきが主流である。ブレーキとアクセルの踏み間違えなどは聞いたこともなかった。ロウ、セカンド、トップと三段階でギアはハンドルの左下にある。左足はクラッチを踏み右足でブレーキとアクセルの操作をする。1時間の練習を毎日やって、下手な運転だと次に進めず、補習だ。父はなるべくひと月で卒業してくれ、と言った。補習ばかり受けているとカネが余分にかかるから。まあ、まだ学生上がりのようなもので、十代だったから、無事に予定通り卒業して公安委員会の試験もパスした。ひと月後に免許証をもらったが、その日の午後に30キロ離れた隣町に行ってこい、と言う。免許取り立ての娘に言うセリフか、と呆れたが、兄が横に乗って行ってやる、ということで、初仕事にでかけた。当時の国道はほぼ信号などなく、たまにバスかトラックに出会うくらいの超のんびりした道路だった。30キロの行程なら30分。60キロなら1時間で走れた。使った車はトヨタのパプリカで900㏄、今の軽自動車みたいな車だ。1週間兄が毎日横に乗ってくれたが、セカンドだ、トップだとかなりうるさい。慣れてきたら乗らなくなったのでホッとした。ひと月後に専用のカローラが来た。新しく出たバンで白いきれいな1100㏄の車だ。仕事以外に使っても良い、と言ってもらったが、今の車と比べたらそれは乗りにくい物で、近頃の連中さんだったらエンジンが無事にかかるか怪しい。初夏から初秋まではキイを回せば良いが、寒くなってからはチョークを引かないとかからない。しかもチョークを引きそこなったらキャブレーターとかいう場所にオイルを被らせてしまって、エンジンに点火してくれない。車を怒らせてしまったようなもの。しばらく待ってから再度アタックする。トヨタの車はとても気難しかった。女の子には日産の方が良かったか、けど、わしはトヨタ車が好きだしなあ。父親のセリフだ。運転するのはワシじゃないのよ、と文句を言いたかったが、二年後に日産のエクセレントのハッチバックが来た。これに乗れ、と、娘の意見は無視である。カローラより乗りやすかったか、といえば、女性にはカローラのほうが良いような気がした。やっぱりチョークを上手に引かないと似たようなことになった。真冬にマイナスの気温だと頑強にエンジン点火を拒否する。兄が、湯を持ってきてマニホルドにかけろ、と言う。それをやると一発でかかった。やっかいな車だが、会社の横の坂道でエンストを起こして困っている近所のヒトに、お湯の差し入れを時々行う。今の車は優秀でラクになったものだ。